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セックスを文章化する

※少しばかり、危うい文章が紛れておりますので、お気をつけ遊ばせ。

小説を読んでいると、性描写に行き当たることがある。
それは、露骨に書かれているときもあれば、お上品に、さりげなく書かれているときもある。
例えば、古井由吉なんかは、お上品なのか、スケベなのかわからないけれども、そういう匂いを文字の裏側に忍ばせるのが上手いし、車谷長吉は普通に媾合だの、射精だの、生々しい言葉を使う。
古井由吉の『槿(あさがお)』は、濃厚な性の匂いが漂うが、然し、それも紗がかかったような、不可思議な感覚だ。

反対に、車谷長吉の著作は、ロマンも何もない、生きものの雄雌の合体である。

例えば、私は馳星周の作品が好きで、彼の著作は山とあるけれども、大体9割ほどは読んでいる。馳星周の本は本当に面白い。好きなのは初期作で、『漂流街』なんて止まらなくなる面白さだし、『夜光虫』や『雪月夜』など、何度も繰り返して使いたく成るフレーズが山盛りである。
中期の『煉獄の使徒』なんかは、そういう性描写がかなり多い。

彼の作品は暗黒小説と呼ばれるもので、ノワールと呼ばれる犯罪小説が多い。ジェイムズ・エルロイの『ホワイト・ジャズ』に影響を受けている。

初期はほぼ全てがノワールで、日本の歌舞伎町の暗黒街であったり、或いは海外の暗黒街が描かれるが、そこには男女の火のような性行為が横溢している。

彼なんかは、もうあからさまに書くわけだ。例えば、大作『漂流街』では、

腰を打ちつけるたびに、ケイの尻の肉が揺れた。乳房が揺れた。四つんばいになったケイの背中を撫でまわした。乳房を揉んだ。腕をねじあげた。

ここから先は、少し書くのを憚られるので割愛するが、このような作品には、あからさまに書くことこそが美学なのである。暴力につぐ暴力。欲望×欲望×欲望、金金金金金金金金の世界では、主人公は全てを曝け出すわけだから、このような暴力の坩堝を書く作品には相応しい。それでこそ、主人公の焦慮が活きてくるし、生々しいヴァイオレンスの臭いが充満する。
このような描写を嫌悪する読者もいるだろうが、然し、馳作品では男だろうが、女だろうが、等しく肉塊になる可能性を秘めている。尊厳を踏みにじられる。ヒリヒリと、闇の中を蠢いている(最近は大分マイルド♡)

反対に、川端康成は、行間に隠す。それも字のごとく、出来事と出来事を一行ずつおいて、その間にそっと、注意深く読まないと、いつの間にか二人は男女の仲になっていた、というような、読み飛ばしを誘発する仕様を好む(好むのかどうかは知らないが)。
例えば、『山の音』なんかは、主人公の信吾が夜に眼を覚ますと、息子の修一と嫁さんの菊子のセックスの声を耳にするシーンがある。

その声の多少の違い、つまりは、修一が愛人の元へ出かけてそのような新しい行為を重ねたことで、菊子の反応が変わったことを、下記の文章で表現している。

女が出来てから、修一と菊子との夫婦生活は急に進んで来たらしいのである。菊子のからだつきが変わった。さざえの壺焼きの後、信吾が目をさますと、前にはない菊子の声が聞こえた。菊子は修一の女のことをなにも知らないと、信吾は思った。

信吾は変態である。ちゃあんと、聞いているし、見ているのである……。つまりは、作者の川端康成が変態エロガッパだということだが……。

村山由佳の作品なども、性描写が多い。

眉を寄せ、顎を引いてじっと耐える。けれど、奥までぜんぶ沈め終わった彼がいきなり腰を引いたとたん、私は再び声を上げてしまった。慌てて手の甲で口をふさぐ。

私は上記の『海を抱く/BAD KIDS』が彼女の作品で一番好きな小説だけど、ここでは非常に複雑な性愛が描かれる。こちらには女性作者の書く男性目線、女性目線が交錯するが、反対の、男性作者の書く男性側の目線、女性側の目線でも、それぞれに書かれる内容に差異は生まれてくるだろう。時代も関係してくる。

どちらがいいか、というわけではなくて、自分がどのように世界を構築したいか、で書き方は変わってくるのだろう。
テーマに使うのか、表現として使うのか、人物の性格付けに使うのか、読者を煽りたいのか。セックスは人間の最もデリケートな部分の一つであるから、そこには誰しもが少なからずの関心を抱く。
どのように書くのかは著者に委ねられているが、この辺りはその作者の人間性すらも曝け出すことになるため、非常に難しいところである。けれども、これを正面から書かないことには、嘘言になってしまうわけだ。

露骨が映える時もあれば、露骨は粋じゃないときもある。
例えば、妻が弟と寝た(大江健三郎的)という事実を書くだけで、人物の間に緊張が走る。関係性の変化にこそ読者は衝撃を覚えるわけだし、結局は、物語においては、性描写そのものではなく、人間同士の関係性にこそ、人は官能を感じるように出来ているわけで、あくまでもここにおいても、文体は手段でしかない。
それ以上に向かうところは露悪趣味になってしまって、如何に激しいものを書くか、それだけの世界にならざるを得ない。
週間少年ジャンプの漫画作品と同様で、強い敵の倍々ゲームになってしまう。

けれども、誰も描いたことのない、欲望の世界を著した文体、というのも目指すところであるのならば、そこには熟考の余地があるだろう。

『ブルーピリオド』において、猫屋敷先生が、「恋人とのセックスを作品にすればいいじゃん」ということを言っていたが、私は反対派である。
セックスを作品の主題にするのはつまらない。セックスは、潜みながらもふいに現われる化け物であるから、面白いと思うのである。



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