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山崎俊夫という小説家

山崎俊夫という小説家がいた。

明治・大正時代の小説家で、永井荷風の編集していた『三田文学』に作品を掲載していた。

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耽美な作品、それも稚児ものなどを物にしていた作家である。普通に生きていたらまずは遭遇しない作家であるが、三十五年ほど前に彼の作品集が編纂されて、再評価された。

彼は西村賢太が随筆で詳しく書いている倉田啓明に名を騙られていて、私は倉田の作品は未だ読んだことがないのだが、これは恐らくは同様に稚児ものを書いていて、似通った魂を持つ作家だったのだろう。

彼の作品を読むと、日夏耿之介を思い出す。
耿之介(こうのすけ)、いい名前である。
丸尾末広の『笑う吸血鬼』の主人公の名前が耿之介である。
どうでもいいが、『笑う吸血鬼』のヒロインを犯すこいつは、ジョン・ゲイシーだよね?

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それは、互いに裏側が爛れた世界だからだろうか、『日夏耿之介の世界』を読んだ時、未完の作品だかの詳細が書かれていて、それは残酷な少女の話で、彼女に魅了された少年たちが彼女の屋敷に行くと、恐ろしい目に合う、そうして、主人公の少年も、それを知っていてなお、その残酷の館へと少女と手を取り合って向かうところで幕切れという、ゾクゾクするような話だったと思う。

これを大層マイルドにしているのが、谷崎潤一郎の『少年』である。

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話を山崎に戻すと、彼の作品に『鬱金桜』というものがあって、私は自分の小説にそのタイトルを拝借した。
彼のタイトル付は素晴らしいものが多い。
例えば、『アブサロムの首』、『美童』、『夜の髪』、『麝香猫』、『玉虫秘伝』『童貞』、『花の雨』…。

タイトルで、その人の言語感覚がわかるが、これらの言葉の持つ豊穣なイメージ、耽美な世界は、彼の思考そのものだろう。

全集が編纂された時、装画はアラステアだった。変態紳士のアラステアが飾るに相応しい、絢爛な稚児の愛が書かれる。

耽美派というのは、よく谷崎潤一郎がその代表格として書かれることが多いが、谷崎は耽美と言うよりもただの女好きのちんぽ野郎であって、耽美とは同性愛でしか描けないものである。
美しい表現はままあるものの、要は、世間一般で許容できる美ということである。それは三島由紀夫も同様である。
本当の耽美は人を選ぶ。

例えば映画監督ならば、押井守が言うように、一時期2000年代に持て囃されていたティム・バートンは世間一般が許容できる異形加減で、それを相棒のジョニー・デップが仲介役としてハマったことで世間に受容されたと言っていたが、それは正しい。
押井曰く、真の変態はバートンではなくクローネンバーグで、真の狂人はデビッド・リンチである、というのも、恐らくは正しい。
クローネンバーグも、リンチも、普通の人は観ない。『裸のランチ』も『インランド・エンパイア』も、観ても理解が出来ない。然し、解読に命をかけるマニアもいるわけだ。一部の信者を生み出す、異様な魔術師たちだ。

山崎俊夫も普通の人は読まない。読んでも理解できない。一部の好事家が喜ぶだけだ。だから、また消えるし、また復活もするだろう。
斯様な作家は、半永久の命を持つ。どのような時代にも、はぐれものはいる。そのはぐれものの魂に寄り添う魔術を、彼らは心得ている。
それは、自身もはぐれものだということを、さらけ出すことである。
まぁ、そのほとんどが、天然なのだろうが。

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