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思い出こそが藝術 『フェイブルマンズ』

スティーブン・スピルバーグの監督作品『フェイブルマンズ』を鑑賞した。

スピルバーグの自伝的作品である。私は、この自伝的作品、という言葉にこそ惹かれるものである。
自伝、というのは、自叙伝、というものは、藝術家が最終的に辿り着く境地だからである。

私はスピルバーグ作品でベスト5を決めるのであれば、
1位『戦火の馬』
2位『マイノリティ・リポート』
3位『宇宙戦争』
4位『E・T』
5位『AI』
で、あり、ちょっとヘンテコである。無論、インディも好きだし、初期作も好きだし、『プライベート・ライアン』も最高だとは思っているが、『リンカーン』とか『ブリッジ・オブ・スパイ』とか『ミュンヘン』はあまり好きではない。

よく、作品と人物を切り離す人がいるが、それは馬鹿である。私は物の見方を識りませんと公言しているようなものであり、作品と創作者とは頒かちがたく結びついている。
まぁ、これは暴言なので謝罪するが、そういうものであり、今回の『フェイブルマンズ』はスピルバーグの映画作りの根幹、そしてそれに至るまでの父母の物語だった。
スピルバーグの映画は、結局はこの父母、そして出自が色濃く反映されているわけで、それを作品を通してカリカチュアしたものではなく、詳らかに語ることこそ、今作の肝である。

物語は1952年から始まるので、スピルバーグが6歳の頃の思い出である。
ここで、父と母に連れられて、夜の映画館で映画筆おろしをしてもらう。

この一連のシークエンスは夢のように朧気だ。車の中の子役の恍惚とした演技、あそこが一番よかったね。

『地上最大のショウ』を鑑賞したスピルバーグ少年、いや、主人公のサムは心を奪われて映画に恋をしてしまう。作中の汽車と車の衝突が脳裏に焼き付いて離れない。彼はハヌカーのプレゼントに、汽車を所望して、それを走らせて遊ぶのだが、その時にあの映画で観た衝突を再現しようとする。何度もである。
そのため、見かねた母が父のカメラで衝突シーンを再現するように進言する。そうすれば、壊れることはないし、何度も観られるからと。
サムはそれから母の言われたとおりに汽車の衝突のミニフィルムを撮影し、そこから、家族を巻き込んでの撮影を始める。
冒頭からここまでの30分ほどは煌めきに満ちている。美しい、スピルバーグの少年の日の思い出が描かれている。

『少年の日の思い出』はヘルマン・ヘッセの書くドイツ小説だが、教科書に掲載されているので読んだ方は多いだろう。私はこの小説が小説としては一番好きである。これを超える小説作品はない。今作はクジャクヤママユを巡っての少年の日の頃の悔恨を描いているが、スピルバーグ少年の思い出は壁に映写されたフィルムの断片のように、朧気でありながらも魔法に満ちている。

ぶっちゃけると、私の満足のピークはここで訪れて、ここからサムが成長していくシーンはそこまでいいとは思えないが、然し、それはスピルバーグだからであって、他の映画と比べると画作りも演出も数段格上である。

私はミシェル・ウィリアムズが好きで、『ブルー・バレンタイン』は本当に美しい映画でライアン・ゴズリングも相まって愛して止まないが、今作でも1人演技力が高すぎて圧倒的だった。父親役のポール・ダノはいつものポール・ダノであり、結局、ポール・ダノはポール・ダノでしかないので、ポール・ダノがそこにいるだけである。
で、このミシェル・ウィリアムズが今作の実質の主役みたいなものであり、彼女と父との離婚という要素、その引き裂かれた家族という要素にドラマを振っている。

デレク・シアンフランスの『狼男』すげー楽しみ。『ブルーバレンタイン』も男女の終わりの話だ。思い出は美しい。


序盤、母方の祖母が死んだ時、彼女が縁切りをしていた弟がサムの家を尋ねるのが、彼がサムに対して、藝術と家族は相反しており、藝術を志すことは、心をズタズタに引き裂く(最後に出てくるジョン・フォード役のデビッド・リンチも同様の言葉を囁く)ことだと告げる。
これは、藝術の本質であり、アーティストは誰しもが家族を愛してもいるが、然し、藝術の魔力でどこまでも破滅的なことをしてしまう宿痾を抱えているのである。

そして、サムの母はアーティストであり、ピアノを弾き、ダンスを踊るが、父は研究者であり、堅実に働いて、家族を養っている。
互いに異なる要素が惹かれ合い、最終的には破綻していくのである。
母親は父の友人で同僚のベニーに惹かれている。彼を交えてのキャンプへ行った日を撮影したフィルムを編集するシーンは、今作のピークの一つであろう。黙々とフィルムを見ながら編集するサムは、フィルムの中に母の恋を見つけるのである。

この要素は、後半の高校生活のシーンでも登場する。サムはユダヤ系なのでイジメられるが、なんだかんだあって、クラスメイトで海に行った日を編集したフィルムがプロムで流されて、皆を喜ばせる。
そして、その中でサムが主役にしたのは、皮肉にも自分をイジメた1人であり、プロムキングタイプのローガン(ヒュー・ジャックマンではない)である。然し、主役にされた当のローガンは、自分が作り上げられた虚像のように映ることに嫌悪感を示す。本当の自分ではない、と涙を流す。
彼は努力して今の自分を作り上げたのであり、このような典型的な、何も考えていないような、完全無欠の男ではないと言うのだ。
映画は、人を作り上げる。その怖さである。母の恋もまた、母はサムにそのフィルムを見せられて、より自覚的になった。映像とは真実を映し、その人の内面を焙り出す。そして、時には編集でいくらでも嘘を付けるのだ。
この時点で、スピルバーグ、じゃなかった、サムは神になったのだ。それは、映画の神である。
このシーンで、私は『桐島、部活やめるってよ』を思い出した。あれは東出君が空っぽの役で、単純に憧れて被写体にしてきた神木君に涙を見せるシーンだったが、ここでもまた、虚像と偶像に関してのことが物語られる。

今作は非常によく出来た映画で、満足度も高いのだが、完全に妄想、というよりも、虐められていたスピルバーグの願望的展開に現実を改変した恐れのあるシーンが散見されるため、やはりスピルバーグも人の子である。
まず、本当にガチで再現するのならば、主演がカッコいいので、本来はもっとヒョロヒョロの瓶底眼鏡役者を使うべきであり、この時点で振り切れないのがスピルバーグの限界であり、映画の神の悪いところである。

さて、藝術とは、全て最終的には自分に還ってくるものだ。
誰しもが、自分だけの藝術を追い求めていく時、それは過ぎ去られた時代のことだと気づく。
初期衝動、こそが藝術であって、後は技術を積み重ねていくだけである。そうして、人は誰しもが美しい記憶や思い出で見た光景を再現しようと、苦心するのだ。それは、もう手が届かない、手にしてしまっていたものだから。

私は、『フェイブルマンズ』はてっきり映画監督になってからの時代も描くかと思ったが、実際にはその手前で終わっている。
なので、1952年〜1965年の、彼の青春時代の物語である。

最後のカットはジョン・フォードの言葉をそのまま真似していて、なかなかウィットに富んでいる。

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