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タランティーノ・the・MOVIE・CRITIC

クエンティン・タランティーノの新作は2024年だか2025年だかに公開されるらしいのだが、今回で監督引退である。
タランティーノは10本撮ったら引退すると20年くらい前から公言していて、

1本目 1991年…レザボア・ドッグス ☆☆☆☆
2本目 1993年…パルプ・フィクション ☆☆☆☆☆
3本目 1997年…ジャッキー・ブラウン ☆☆☆☆
4本目 2003年…キル・ビルvol.1 ☆☆☆
5本目 2004年…キル・ビルvol.2 ☆☆☆
6本目 2007年…デス・プルーフinグラインドハウス ☆☆☆☆
7本目 2009年…イングロリアス・バスターズ ☆☆☆
8本目 2012年…ジャンゴ/繋がれざるもの ☆☆
9本目 2015年…ヘイトフル・エイト ☆
10本目 2019年…ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド ☆☆

があり、まぁ、次で11本目なのだが、『キル・ビル』は途中で分作になったため、これは1本としてカウントされるわけだ。
(☆は私の勝手な評価)

これ以外にも、『シン・シティ』の部分監督や、『フォー・ルームス』のエピソードの一つを監督したりしていて、次回作は『スター・トレック』になりそうだったが、これは流れて、オリジナルである。

で、それが『THE MOVIE CRITIC』というもので、まぁ、タイトル通り、映画評論家が主人公である。

さて、私が今作を楽しみにしている最大の要因は、無論、作品そのものもだが、それよりも、映画評論家界隈の反応である。

ついに、タランティーノが、あの、映画を愛するルーザーたちの座りたい椅子に座すクエンティンが、映画評論家の話を映画にするのである。

まぁ、とはいえ、この批評家はポルノ雑誌に書いていたポルノ関連の記事のライターで、無名だったらしい。今は誰なのかまだ明かされていないが、35歳くらいの頃の話であり、その年代の俳優を使いたいそうだ。
なので、ブラピとかディカプーは今はタランティーノ組だけど、主演は恐らくは新しい俳優になる可能性が高いんだとか。

舞台は70年代。私は90年代タランティーノが好きだ。昔々のハリウッドも、南北戦争直前のテキサスも、ドイツ占領下のフランスも好みではない。だが、70年代のロスならば興味がある。或いは、ニューヨークだろうか?

私はニューヨークには1年弱住んでいたが、ロサンゼルスは行ったこともない。私の人生の損失の一つに、NY滞在時に少し足を伸ばして、ペンシルヴァニアのフランク・ロイド・ライトの『落水荘』を見学に行くべきだったということだ。
うーん、マンダム。マンダム。

然し、楽しみである。
映画評論家のポーリン・ケイルの話を描く、と噂されていたそうだが、この無名の人になった。どの雑誌に書いていたかも不明だが、タランティーノ効果で一気にその人物の書いていたレビュー掲載の雑誌が高値になるだろう。今は二束三文が、一気に数百倍になる。何百ドルで取引されるようになるだろう。

そして、前述の通り、映画評論家、というタイトルなわけで、これはもう、否が応でも、この映画を評論するプロたちは自分を重ね合わせないことにはいかないだろう。
まぁ、そんな映画じゃないかもしれないが、タランティーノ流の映画批評、というか蘊蓄うんちく、それこそ、70年代のポルノ産業ハリウッド産業雑誌産業、それらを捏ねくり回した蘊蓄うんちくが陸続と続くダイアローグが拝めるだろう。
何しろ、主人公は死ぬほどの皮肉屋だったそうから。


クエンティンは、自分のフィルモグラフィーの最後に、映画評論家(批評家)の話を物語るわけで、幼い頃から浴びるようにテレビで映画を観て、ビデオアーカイブスで売れない映画製作志望者たちと、脚本を書き続けた20代、彼は誰よりも映画評論家である。その身体や脳内に詰め込まれた映画の量は常人を遥かに凌駕しており、まぁ、3万本くらいは観ているのではないだろうか。
シネフィルと呼ばれる人種でも、1万本観ていたら大したものだ。意外に数えていくと、3000本くらいで止まるから。
1日5本観る生活を20年続けても4万本であるから。

クエンティンは常々、「俺は盗むよ」と公言している通り、『レザボア・ドッグス』は『友は風の彼方に』のパクリであり、『パルプ・フィクション』でも共同執筆者であるロジャー・エイヴァリーのパートを横取りしたりして揉めたりして、売れない頃のトキワ荘的絆よりも、ハリウッドを選んだ男である。

まぁ、彼が天才的なのは、編集者的な目線で自分の観てきたものを、彼のフィルターを通して出力しコラージュ、それが藝術だったところである。
同じ脚本でも、クエンティンが撮るものと、他の誰かが撮るものでは、全くクオリティに差が出るだろう。それは個人の持つ間と魔に関わり、これは天性のもののため、努力ではどうにもならない。
彼はスティーラーであるが、スティールしたものを美しくでっち上げる天才である。彼は詐欺師であると同時に芸術家である。藝術家は詐欺師である必要性があるのだ。

私は、物語や演出というものは、複製される定めを持っていると思う。
その差分にこそ、個人の資質があらわれるわけで、ある種のギャンブルだ。
ただの劣化コピーならば才能はない、けれども、それが美しき二世ならば、藝術の本懐を遂げたということではあるまいか?

ちなみに、サムネは私の大好きなミシェル・ファイファー版キャットウーマンであり、本編とは一切関係がございません。




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