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映画監督になりたい

という人は多いと思う。

私も機会があれば映画を撮ってみたいが、然し、絶望的にコミュニケーションが下手であり、意見の板挟みになると、安牌を選んでしまうために無理だろう。妥協してしまうのが私だ。私には監督としての資質は一切ない。

現場において、様々な立場の人たち、その互いの意見を尊重しつつ、自分の絵の具をカンバスに塗って描いていくのは途方も無い労力が要求される。

そういう意味で、全ての映画監督は偉大である。
作家性、を持つ監督は、その中でも特に指揮・統率能力に長けているのだろう。

例えば、私の最も愛する映画の一つ、『ブレードランナー』のリドリー・スコットは完全に狂っている。いや、狂っている、というよりも、完全に自分のビジョンを確信しており、それを映像化するためにはどんなことも厭わない。常人であれば、ここは押せない、引くべきだ、というところで、躊躇なく押す。ここでこんなこと言ったら、皆困るよなぁ、怒られるよなぁ、言いたくないなぁ、でも、言う。どころか、リドリー・スコットは喧嘩を売る。彼は、スタッフに『イエッサー!ファック』Tシャツを着させた男である。
ブラッドベリビルを見学した際に、「他の映画でも使われてますからねぇ……。新鮮味ないですよ。」と言われても、「俺がやれば大丈夫だ。」と言い、見事圧倒的なビジョンを描いた男である。ブラッドベリビルはオフィスとしても使われていたので、毎夜の撮影毎に濡らして汚し、撮影後朝まで掃除させていたという鬼畜生である。何故なら、また汚すからである。三途の川の石積みじゃあ……。

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そのような、有無を言わさぬ作品作りこそが傑作を産む。
かと思えば、私の最も愛する、一番大好きな映画、『ブレードランナー2049』のドゥニ・ヴィルヌーヴは、完璧に他者の意見を尊重し、現場をかつてないほどにスムーズに回しているという。みんな穏やかで、ライアン・ゴズリングは作中のKの哀しみとは正反対の笑顔である。

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どちらの演出術が上回っているのかはわからない。然し、どちらも紛れもない傑作である。

映画監督の本を読むのが好きだ。その中でも、フィルムアート社から発売されていたロバート・ロドリゲスの『ロバート・ロドリゲスのハリウッド頂上作戦―23歳の映画監督が7,000ドルの映画でメジャー進出!』(とんでもなく長い、ラノベ並に説明くさいタイトルだ……)は、非常に面白い。

ロバート・ロドリゲスといえば、『パラサイト』であり、『シン・シティ』である。
これだけは言える。アメコミ映画で最も美しく面白いのは、『シン・シティ』である。
あの、白い雨に塗れたフィルム・ノワールは、蠱惑的な魅力に満ちた暗黒絵巻。激烈に面白く、私はこの映画に心底惚れた。
まぁ、『シン・シティ』は私にとって、大変特別な映画である。

このメキシコの監督の立身出世を仔細に書いた本が、『ロバート・ロドリゲスのハリウッド頂上作戦―23歳の映画監督が7,000ドルの映画でメジャー進出!』である(な、なげぇ……)。
彼が、約7000ドルで『エル・マリアッチ』を撮ってみせたその行程から始まり、後半からは彼がこのフィルムを持って、地元のビデオショップや会社などに売り込みに行く話、そして舞台がドンドン壮大になっていく話が描かれる。
ここが頗る面白い。彼はビデオの可能性に賭けていて、ウルトラな市場となったビデオ界隈へ売り込みをかけて、金を引き出し、成功する。ビデオの時代、ビデオアーカイブスで浴びるほどのビデオを観たクエンティン・タランティーノもまた、彼と同じサンダンス映画祭で認められて、仲良くなる。今は、You Tubeだろうか。それから、次はメタバースが何かを握っている?

押井守は言った。映画監督は、自分の金で映画を撮ってはならない。他人の金で映画を撮るのが演出家であり、監督である。

然し、世の中には自分の金や、借金で映画を撮る人種はいるものだ。
例えば森田芳光は家を抵当に入れて3000万円を工面したし、北村龍平はあらゆるカードでキャッシングして(仲間たちも)、現金を作った。

映画には、莫大な金がかかる。それは数多の人間が関わり、制作時間も膨大になり、片手間ではなかなか出来ない仕事だからだ。最早iPhoneひとつで映画は作れるが、けれどもやはり共同作業、共同幻想を焼き付きたものが映画であり、監督はその中心に立ちたいのである。自身の幻想を共同し、そこに確かに立ち昇るであろう、映画的一瞬をフィルムに、カメラに刻み込みたいのである。

偉大な映画監督の本を読んでいると、彼らもまた、始めは小さな作品から始まっている。それは、規模もそうだし、予算もそうで、必ずしもやりたいことの全てが込められているわけではないけれども、然し、その屹立点には必ずといっていいほどに、彼等のコアが存在している。
私は、映画監督は2本目、乃至3本目で最高傑作に到達する説を推している者だが、必ずしもそうではない。

けれども、マーティン・スコセッシ、クエンティン・タランティーノ、リドリー・スコット、テリー・ギリアムなどは、これに当てはまると思われる。
1本目、処女作で掴んだ何かを、2本目か3本目かで昇華するのである。
たくさん撮って、どんどん上手くなる人も多いので、その限りではないが……。けれども、初期衝動、というのは技術を遥かに凌駕するものである。
それは、目にものを見せてくれるという気概である。つまりは青春の雄叫びである。映画監督としての青春。
その青春こそが、映画を輝かせ、羽ばたかせている。のではないかしら。どうかしら。

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