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映画評論に期待しているもの


映画が好きなので、それなりに評論だとか、レビューだとかを読むが、やはり、面白いものと、そうでないものとの差は、その評論に独自の視線があるかどうかだろうか。

昔、映画ライターについて書かれた本を読んで、映画ライターとは、基本的には作品を各種媒体で紹介する宣伝屋なのだということが書いてあった。だから、悪いことは書かずに、美点を書くわけで、耳障りの良い(あくまでも作り手側に)言葉で、読みやすいように書く必要性がある。
それは商売に寄与していて、立派な職業であるが、時には嘯くことも必要になるだろう。

本音では糞映画だと理解していても、思ったことをそのまま書くのは商売として成り立たない。
そして、その界隈の人々と仲良くなればなるほど、親しくなればなるほど、忖度が必要となり、『幽遊白書』における海藤のテリトリーのごとくに、使える言葉や意見は奪われていく。自らで枷を嵌めに行くわけで、上昇すれば上昇するほどに、枷が重くなっていく。

だから、創作をする人間は基本的につるんではいけない。つるまなければやっていけない、食っていけない、というのならば、辞めて別の仕事をしながら好きに書いていればいいのである。立派に製本された嘘まみれの本よりもチラシの裏に書かれた思想が勝ることはいくらでもあるだろう。
ガワ主義は辞めるべきだ。

まぁ、それは私の個人的意見なので、ともかく、優れた映画評論には独自の視線によって導き出されているものが多く、大抵の評論と僭称されたものは、その作品が面白いか、面白くないか、映像がきれいかどうか、音楽使い、編集の妙、役者の演技方、監督の演出法、など、凡百の感想を並べ立てただけの感想文の域を出ておらず、個人的には面白くない。
調べればすぐにわかることばかりで、ワンダーがない。
ワンダーとは、予想もしない驚き、感動、考え方であり、それを読むことで脳内が洗われることを指す。
たまさか、そのようなワンダーな評論に出会う。それは、紹介という文章とは質を異なっていて、紹介のために書く、という意味では書けないものであり、いや然し、それはその評論を書いた人間の思考、主義、思想を伴い、映画の紹介がいつの間にか書き手自身の紹介へと変じるわけで、それを言うのならば、それは評論という名を借りた自己紹介文章と言っても差し支えないかもしれない。

映画に共感や慰安を求める人種が多いのは当たり前だが、私的にはそういうものにはあまり興味はない。
映画を始めとした優れた芸術作品、私の琴線に触れたそれらがなぜ、どこかで見たような記憶の欠片のように思え、ここまでに懐かしく、魂にまで浸透していくのか、それを理解させてくれる評論に出会いたいのである。

生憎、そのような評論は今まで指折り数えるほどしか出会っていないが……。映画評論を読んだその日、その日が人生の潮目を変えるような、そのような評論をたくさん読みたいのである。

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