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タルホと月⑳ 『彌勒-MIROKU-』

林海象の映画『彌勒-MIROKU-』に関して。

『彌勒-MIROKU』は2013年に公開された作品で、稲垣足穂の原作小説を元にしている。
監督は林海象で、京都造形芸術大学の学生たちと制作された。

まぁ、原作小説とはいっても、『弥勒』は非常に難解であり、ある程度稲垣足穂の作品を読んでおくと理解が深まる。
何が難解かというと、基本的な小説の体を成していないところである。

序破急、或いは起承転結がない。いや、あるにはあるのだが、然し、今作は稲垣足穂の記憶や経験した出来事が脈絡なく並べられており、それが横軸になっている。縦軸は彼の貧困状態の生活である。
例えば、ある登場人物が急に登場する。そして会話をしては去っていくのだが、彼は誰なのかよくわからない。それから、古今東西の作品や格言などの引用、キリスト教の知識、など様々散りばめられている。説明がない。なので、読んでいても、恐らくは意味がわからないだろう。そして、改稿に次ぐ改稿で、どれが本当の『彌勒』かわからない。

然し、他の本などを読んだり、調べたりすると判明し、段々とその世界が理解出来てくる。
『彌勒』は稲垣足穂の眩いばかりの美しい学生時代を描く第1部と、そこから困窮の極みを覚えていた時代の第2部で構成されている。
すごく大雑把に言うと、学生時代に藝術や星の世界に憧れた少年が大人になって零落するも最終的には自分は彌勒菩薩の生まれ変わりであることを悟る的な感じである。

で、主演は永瀬正敏。私は永瀬正敏の缶コーヒーの『FIRE』のCMが好きである。恐らく、カッコいいCMベスト3に入るだろう。


ちなみにもう1本はアクティオ。


で、永瀬正敏が第2部で主人公の江美留えみる役を演じるのだが、いつもの永瀬正敏でしかなく、この時代の足穂は40歳くらいなのだが、どちらかというと角刈り系なので、ロン毛ではないような……。ロン毛だったのかな……。まぁ、どちらでもいい。そもそも、私は映画化に関して、漫画とかだと、いかにキャラクターを忠実に再現するか、というあまりにも意味のないことこが持て囃されていることに違和感を覚えるものである。

『ゴールデンカムイ』とか、如何に鶴見中尉が似ていようが、外見が似ているだけでは全く面白くない。
それなら漫画を読んだらいいわけで、アニメや実写というのは映像という媒体に転生した際に、どのような演出で持って作品の核を描くかが肝であり、
その本質を捉えていれば、顔立ちなぞどうでもいいのである。原作を潰して面白くなる映画などいくらでもある。

そして、この『彌勒-MIROKU-』に関してだが、90分弱の映画なのですぐに終わるし、物語をとても簡素化しているため、展開はわかりやすいだろう。
タルホが風呂場で悟る聖人セイントという言葉を肝に、物語を展開させるが、然し、やはり『彌勒』は小説で読んでこそだろう。あの脈絡の無さ、散りばめられた宝石を一つ一つ拾い集めていくような、ガラクタが急に反転して星石に変わるその煌めきは他に例えようがない。藝術とは自叙伝である、このことを正しく地で行くタルホの小説の最高傑作(てゆうか小説はあんまりないし))であることは間違いない。
何ならば、『君たちはどう生きるか』、あれも監督が明言しているように、自叙伝である。
あれは美少年映画であり、即ちナルシシズム映画であり、母恋の映画である。眞人は聖人セイントであり、宮崎駿の分身であるから。

『彌勒-MIROKU-』の第一部は少年時代を女性が演じている。この方式は金子修介監督の『1999年の夏休み』と同様のパターンだが、まぁ、衣装などみても、まんま一緒であるが、そもそも少年愛の作品だからこそ、このアンドロギュノス性は正鵠を射ており、正しいのだ。本当には少年でやるべきだが、みずみずしい少年たちが揃うことは奇蹟に等しいから。



1915年前後の日本、この美しい光景をモノクロームに閉じ込めているが、果たして後半の1940年代の日本は暗黒のモノクロームになる。
小説も第1部と第2部の落差は凄まじいため、第1部は童話のような、美しい天上の時間のように思えるが、幼心こそが藝術のタルホにとりその美しさは正しいわけで、中年の足穂はアル中で原稿に向かうしかない。そこには悲壮感しか無い。

然し、映画は先程も書いたように、あまりにも理路整然としており(まぁ、それでも異常な感じだが)、その分発見や刷新を与えるような感覚はあまりない。ただ、稲垣足穂の映像化としては、美術面では相当に頑張っている。
然し、真の意味での墓畔の館はもっと薄汚れており、掃き溜めめいている。だからこそ過去が輝くし、聖人が輝くし、雨の日の雨戸で死にゆく蛾が美しく脆い花束のような藝術として描かれているのである。


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