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ブルーピリオドは面白いなぁ…面白いのかな?

『ブルーピリオド』13巻を読んだ。


『ブルーピリオド』はとても好きな漫画である。然し、ここ最近はそんなに楽しみではない。

何故だろうか。それは、藝大編に入ってから、もうやり尽くしてしまったからかもしれない。

13巻では12巻から続く、罪悪感というテーマの課題を作る過程において、藝大の考えとは違う藝術コミュニティノーマークスの考えを、八虎が吸収しながら、自分の中で昇華する話がメインの一つとなっているが、藝術論とはそれこそ山とあるし、派閥や時代や感性で変わるため、明確な答えはない。このような、明確な答えがない、明確な正解がない、明確なゴールがない、というのは、藝大生、いや、学生生活というモラトリアムを描く上ではある種リアリズムなのかもしれないが、前身は牛歩のごとしであるし、この先この漫画は奇跡的な煌めきを獲得するのは難しいと思われる。

何故ならば、奇跡的な煌めきは既に獲得されているからであって、辞め時を誤ってしまったように思われるからである。
その煌めきは、八虎が渋谷の朝に青を見出した瞬間から連なる勝負と表現の日々、そして、藝大入学後の世田介との心情の交差、ここがピークであり、ある種、藝術との初恋はここで極めて美しく花咲いたのであって、そこから先はだんだんと滋味の世界へと入っている。

相変わらず内容は面白いが、然し、そもそも藝術家というものは、藝術作品で勝負すべきであり、八虎やその他のキャラクターたちの作品性というものが見えてこない。

今作は八虎が自分のそれを見つけるまでの話、というのが前提なのかもしれないが、然し、その煌めきは迷走に入った感が否めないと感じられた。
然し、漫画というのは助走期間も往々にして存在する媒体である。今は溜め時で、今後爆発する可能性もあるのかもしれない。

然し、『ベルセルク』のように煌めきが無くなってなお15年に及ぶ停滞を続け辞め時を誤った上、剰え別人が描くという暴挙に出た漫画(私は反対のスタンスなので)と同様、作者の気持ちに脂が乗るその時期を超えた時、作品は躯と化してしまうことは、特に、藝術家漫画ならば一番に注意すべきことなのかもしれない。


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