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椿實。 三島由紀夫の認めた天才

椿みのるという作家がいる。

ほぼ、無名に等しいだろう。27歳で筆を折った小説家で、時折エッセイや評論は発表していた。なので、正確には小説家としてのメインストリームからは降りた、ということである。

椿實は幻想文学を多く残している。耽美派的とも言えるだろう。

椿實を一番に評価していたのは中井英夫、そして三島由紀夫、柴田錬三郎である。
三島由紀夫とは同い年で、三島は椿を「天才です」と、褒めて書いた手紙を寄越した。彼は、椿の作品を読んで感銘を受けると、手紙を出してその作品を褒めた。まぁ、三島はやたらと人を持ち上げる傾向にあるため、少し大仰かもしれないが。然し、椿は中井英夫も感嘆した才能である。

中井英夫といえば、日本三大奇書の一つ、ゲイ雑誌『アドニス』において連載された『虚無への供物』の作者である。この界隈に相応しく、椿實もまた、妖艶、耽美で読者を幻想へとかどわかす。

然し、活動期間が極めて短いため、彼の作品の数は多くない。1982年に刊行された『椿實全作品』という作品集でそのほとんどは読めるし、拾遺作品を集めた『メーゾン・ベルビウ地帯』でそれはほぼコンプリートされる。作品集は3つだけ、

①『椿實全作品』
②『メーゾン・ベルビウ地帯』 限定800部の小部数本
③『メーゾン・ベルビウの猫』

がある。

②③は没後の刊行のため、生前には1冊だけが本となった。
椿實氏は2002年、75歳で亡くなられた。

三島由紀夫は、彼の作品の『人魚紀聞』が一番好きと褒めており、そしてこの作品は谷崎潤一郎の『人魚の嘆き』を思い起こさせる。今作では主人公が夜半、港町にある異邦人の酒場へ赴くと、海賊となった友人壬生と再開した主人公が、彼に招かれたこの世のものとは思えぬ部屋において、抱き合う美しい人魚を見せられる。

え、驚くまいか、黒檀の柱は渦巻く婚礼寝台の、寝乱れたビロードの上には、人魚が二匹抱き合って眠っていたんです。上半身は裸体で、ふくらみかけた少女の乳房がついていたが、下半身はゴムのような絹のような鱗なんで、緋色の尾は金魚のように先が割れていた。それよりも驚くべきは、その二体が腕の太さから真っ黒い髪、顔つきまで完全に同じであったことで、生まれたての犬の子みたいに絡み合って寝ているんです。室内の異国風な調子といい、壬生のどうだいといった笑い方といい、私はまったくファレルノの酒がもたらした幻覚だろうと思いたかったが、私は家を夕方出たままの、蚊絣白の着流しで、ちゃんと下駄まで脱がずにいる風体は、人魚の寝相にバツが悪すぎた。

『人魚紀聞』椿實


谷崎の『人魚の嘆き』は初版本界隈では有名な本である。オリエンタリズムの頃の谷崎の小説で、40代の古典回帰時代とは違う、西洋と東洋が入り交じる魔術的な匂いがする作品だ。
この初版は、何パターンも存在していて、初版の無削除版とかは糞ほど高い。そして、『人魚の嘆き』では、汎ゆる放蕩に飽きた皇子が最後にこの世のものとは思えぬほどに美しい人魚に手を出すのだ。そう、今作でもだ。

人魚、とは、日本では八百比丘尼の伝説の話やゲームの『SIREN』シリーズなどでもお馴染みだが、西洋の人魚といえば、セイレーンのことである。セイレーンとは、ゲームなどでは人面鳥、などで登場するが、その人面鳥が人魚へと成り代わった時期があり、なので、『SIREN』で鳴り響くサイレンの語源がセイレーン、すなわち人魚なのである。

人魚と言えば、もうすぐ実写版『リトル・マーメイド』が公開されるが、ディズニーの実写版を私は一切評価しない。それは単純に、アニメーションで描かれていた美的なものが、全て洗い落とされてしまっていて、代わりに着せられた服の趣味が悪すぎるためである。ゴテゴテとして、引き算がない。

オデュッセウスを誘うセイレーンたち。彼以外にはその美しき肢体も、声も届かない。なんともダイナミックで恐ろしい歌声、海の水の冷たさと暗さも感じる名画である。

フランスの巨匠詩人であるステファヌ・マラルメもセイレーンに傾倒していた。セイレーンの姿を波しぶきに視るという、所謂幻視体験、神秘体験……。そういったことに関して、マラルメの詩句に関して面白い本があるので、ここでも紹介しておきたい。詩、というものは幻視そのものであるから、それは小鳥の囀りの天使からの神託を、夜明けの月に死の影を視るものなのである。


さて、話が脱線したが、私が椿實の作品で一番好きなのは、『月光と耳の話』である。

今作は、シュニッツラーの『レデコンダの日記』を着想に描かれている短編で、パリが舞台なのだが、主人公の大尉は少し前に妻テレーゼを亡くしており、彼が夜に街を歩いていると、声をかけられる。その声をかけてきた主はうら若い男性のようで、燐寸の火に浮かび上がる顔は、花のような美少年である。

ちなみに、よく花のような、と書くと、具体的な花の美しさを思わせる人、とイメージする人も多いと思うが、そうではなく、花は雌雄同体であることが多く、両性花であるから、美女であり美青年、或いは美少年であり美少女だという両性具有ヘルマフロディトス的な美しさだということを表しているわけである。つまりは、花のような人、というのは、額面通りに受け取れば花のようにキレイな、凛とした、艶やかな、或いは花やかな人、なのだが、本来的には男性女性を超越した美しさこそが花やかな人なのである。
小説を書く上で重要なのは、如何に額面以外の意味をきちんとそこにもたらして、二重三重の意味を持たせて、作品のテーマを語るかなのである。

で、この花のような美少年は、どうやら主人公の妻と通じていて、その上、主人公と妻との記憶までを共有している。Aの記憶とBの妄想が同一だった場合のことを書いているのである。果たして、そのようなことがあり得るのか?

この美少年の登場から亡き妻(彼には恋人)を語るその口ぶりから、徐々に読者は幻想小説の世界へと誘われる。
そして、彼は主人公と同一の記憶を持つだけではなく、主人公と相対する自分自身のように振る舞い始める。更には、彼は、終盤女性であることが判明し、正体を表した美少年に対して、主人公はここで、彼女は自分の中の女性性の顕現ではないかと思う。
貴方が私であり、私が貴女である。
主人公は妻テレーゼが自分の中の年上の女を愛していたのではないかと考え、テレーゼは男である主人公を憎みながら同時にその女性性を愛しそして自決し、主人公は自分の中のこの花のような美少年がテレーゼを愛しており、そして今ここで自分を糾弾しているのではないか、と思う。
何を言っているのかよくわからないかと思うが、私もである。

主人公は、オットー・ヴァイニンガーの『性と性格』を持ち出す。この本は昭和に大流行した本で、作者の男性、女性の性格というものと性別というものの関係性を、今ならば叩かれるような論考で語っており、私もよく識らないので恐縮ではあるが、当時の文化人も大変に影響を受けていたのだ。性差別主義者で、25歳で自殺した。

そして今作はヴァイニンガーの思想も受け継いでいて、要はドッペルゲンガーとの月夜に邂逅する話だろう。そして、ドッペルゲンガーには、男としての自分だけではなく、女性であり、美少年であり、美少女であり、卑屈な老人であり、傲慢な女であり、謙虚な男性であり、哀しみを称えた女性でもある。

そして、最終的にこれは妻に死なれて狂った主人公がマリイという酒場の女との無理心中をした時に視た幻想、的な感じで終わっているのだが、最後の二行に全てが集約されている。

や、私も耳を拾った。月光に濡れて光っているのです。これはどうも見たことがあるなと思ったら、これはやっぱり私の耳なのでした。

『月光と耳の話』椿實

美しく、そして不可思議な幻想で幕は降りる。
私はあなたであり、あなたの耳は私の耳である。

ドッペルゲンガーを見たら死ぬわけで、この主人公は花のような美少年を見た時にもう死ぬ運命だった。


小説家、或いは作家、という人は、作家として有名な人とはもちろん稀有な才能の持ち主であり、強運、そして忍耐力があることが多い。
然し、世の中には、稀有な才能があっても、表舞台からは消えていく人も大勢いるのだ。
三島由紀夫を研究している人は当然、椿實のことは識っていると思うが、それ以外の三島読者では辿り着きようもない。
後年も頼まれれば作品を書いたという話だが、もちろん中央文壇とは隔てている。
未だに、大手出版社からの文庫などは澁澤龍彦のアンソロジーに短編が収められているのみで、読むのにハードルが高いのである。
青空文庫でも2072年まで解禁はない。

『椿實全作品』、には若き頃の学生帽を被った椿實のモノクロの写真が一葉、掲載されているが、彼を巡って何人かの少女が争ったという話通り、白皙(モノクロームでもわかるのだ)の美少年であり、これは確かにモテそうである。なにせ、誰もが美少年だと、美青年だと彼のことを評しているから。

ちなみに、私は椿實に関しての作品はそこまで好きじゃないのである。
彼の評論は好きだが、作品は少しくどくて、胸焼けがしてしまうので……。その感性、その邪聖は、正しく幻想の語り部であることは疑いようもなく、高く評価する作家が多いのもうなずける。けれども、私はこの人の生き様にこそ興味を覚える。

彼は、同時代の不世出の天才に見初められていて、そうして、美しい幻想世界を書いた。それは、たまさかそれに気付いた人が手に取り恍惚に浸るような魔薬であり魔書であり……、幻想文学の書き手として、これ以上の魔術はあろうか?

最後に、彼を評した柴田錬三郎の言葉を引用しよう。

これは彼がスコンの青年隊にその人ありと知られたる哲学者たり詩人剣客音楽家将た天界の旅行者たり打てば響く毒舌の名人エルキュール・ザヴイニヤン・ド・シラノ・ド・ベルジュラックのそれにも似たる見事なる天才の所有せる典型的な代物にてー(後略)

『二十世紀ロマンの旗織』 柴田錬三郎

と、まさに万歳三唱である。
そして、美男子であることも、書き添えている。



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