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書店随想 書店パトロール③

書店に行くがあいも変わらず、基本的にはパトロールのみである。

これは、お金がないからである。いや、別に買う金がないわけではないが、何時か来る古書の大物と相対した時に、諭吉の兵隊が10人必要!という非常事態宣言に備えての、先を見据えてのパトロールオンリーなわけである。

パトロールをしていると、思わぬ非行少年少女、所謂いわゆるアバンギャルドな本に出くわすことがある。基本的には皆公序良俗に反さない平和な本たち、所謂売れ線の中身のない本(おっと失礼)なのだが、そういう本に出会うのがパトロールの醍醐味なのだ。

然し、今は本はウルトラに高い時代に突入している。出版社も印刷会社も辛い時代である。本が高くなると、本は売れなくなる。そして、本はまた高くなり、更に売れなくなる。この負のスパイラル。まぁ、どうでもいい。最終的に書店がなくなれば、別の遊びを始めるサ!

で、美術書のコーナーでまず目に留まったのが、『田中敦子と具体美術協会―金山明および吉原治良との関係から読み解く』。

私は、田中敦子といえば、やはりフィービーリサ・クドローを思い出すし、草薙素子を思い出してしまう。
田中敦子は偉大なアーティストであり、本のタイトルにもある具体美術協会の一員である。『精神が自由であることを具体的に提示』することを理念にしている前衛美術の集団であり、まぁ、幻影旅団のようなものだと思ってもらって差し支えない(いや、差し支えあるだろ)。

このシーンのクロロのカリスマ性はすごかったよ。最新話読んだらこのシーンとか『まるでごっこじゃの』

何より、私もその活動の幅はよく識らないため、どうれ、この本を購入して、人様に具体美術協会に関して講釈でも垂れてやるかと意気込んだところ、値段が8000円弱。私は腰を抜かした。驚きのあまり噎せてしまって、目眩を覚えてその場を離れて、もう一度戻ってパラパラと捲る。うーん、美しい装丁よ。然し、こうして後ほど調べていると、なんとあの神戸モダニズムのイケオジ詩人竹中郁の主催詩誌『きりん』とも関わりがあるようだ。

オシャンティ親父 竹中郁

貴方も身に覚えがあるだろう。ふいに興味を覚えて手に取ったそれが、以前から好きだった造り手と繋がっていたことを識るマジカル。
人間は、嗜好というものは、密接に通じているものなのである。つまりは、能力者は惹かれ合うのである。

さて、然し買う金は当然ないから諦めて、次に気になったのは『乙女文楽』。乙女で、文楽だとぉ?

私は浄瑠璃を観たことがない。京都から少し足を伸ばせば大阪は本場だというのに、観たことがない。淡路島にもあるというのを、谷崎潤一郎の変態人形小説『蓼食う虫』で読んだことがあり、一度行こうかと思ったが止めた。まぁ、伝統芸能というのは非常にハードルが高いものである。
あの、天上の空いた場内に陽の射す中浄瑠璃を観るシーンは牧歌的であの作品の中でも特に印象に残る場所である。


どうやら、乙女文楽とは、昭和初期に流行したという、女性1人で行う浄瑠璃らしく、この本はその資料のようで、最後には分厚いインタビューみたいな対談みたいなものが掲載されている。うーん、読みたい!でも、私のような遅読の人間が1時間くらい立ち読みしていたら、書店員様にどんな顔をされるのかわかったものじゃないから止めて、パトロールを続ける。

そして『月岡夢路 芍薬な月』を手に取る。


芍薬な!月!
何たる美しい文言であろうか。このタイトルは素晴らしいなぁ、と大して識りもしない月丘夢路さんの写真集をパラパラと眺める。
芍薬って花は本当に綺麗だよね。立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花、って女優さんっていうのは、或いは男優さんっていうのはそうじゃなきゃいけない。なんて美しい本なんだい。3,630円だってぇ。了解、買わないよ。

で、そうしているうちにやはり文学コーナーへと赴く。私は文学コーナーが大好きである。以前、noteにも書いたのだが、基本的に文学コーナーには人がいない。人がいた試しがない。人は本を読まない。読んでも、しょうもない本屋大賞の本くらいで(ごめん、悪口が過ぎるよね、でもそういうスタンスなんだ)、評伝とかを読む人は本当に少ないのだ。
私はその中で一冊、『〈転生〉する川端康成 I: 引用・オマージュの諸相』という本を手に取った。
言っておくが、これは異世界転生ものではない。川端康成は異世界に転生などしない。

つまりは、川端康成が文学史の中で、如何に数多の人間にその作風から素材、文章表現を引用され、オマージュを捧げられ、新しい形で様々な場所に花咲いたか、ということである。
引用、オマージュをベースに、多くの識者が書いた論文をまとめた書籍であり、買いの一冊である。極濃だ。これは読んでおいて損はないだろう。然し、3,000円である。私は諦めた。なので、パラパラと摘み読む。

つまりは、川端はたんぽぽなのである。彼の最後の絶筆長編『たんぽぽ』の如くに、ふわふわ〜と綿毛になった康成が新しい大地に芽を生やすのである。そう思うと、あの白髪も綿毛のようではないか。
ふわふわふわふわと、「夜の底が白くなった!」「夜の底が白くなった!」「夜の底が白くなった!」「夜の底が白くなった!」「尿瓶の底に清水の音!」「夜の底が白くなった!」「尿瓶の底に清水の音!」「夜の底が白くなった!」と言いながら不気味に微笑む人面綿毛が飛んでいき、運悪くそれはそこにいた恩田陸に当たったようで、『夜の底は柔らかな幻』という作品にその影響が色濃くあるのだという。そういう論文が載っていた。
まぁ、YASUNARI的には、底に何かあるのである。

然し、論者たちは皆一様に『眠れる美女』を推している。あのデカダンスの禍々しい魔空間こそが数多の作家に影響を与えたのだろうか。

谷崎潤一郎に被れると漢字を使いたくなり、句読点を気にするようになる。
川端康成に被れると平仮名で文章を綴りたくなり、女言葉を強調しだす。

まぁ、これは私の偏見だが、『山の音』とか川端康成の最高傑作と謳われているが、あれも本当に平易な、本当に平易な文章で書いていて、ああ、日本語って、漢字とかそんな使わなくてええのんやな、という、そういう京極万太郎的な言葉遣いすらしたくなるほどに、本当に平易なのだ。
日本語は優しく曖昧だ。だからこそ、私達はもっと、本当の日本語を使うために、飾り立てないこと、言葉本来の持つ豊穣さ、それを噛み締めて、意味のある一文を書かないといけない、そんな気がする、そんな気がしませんか?書店員さん、と書店員を見ると、さっきから何ニヤついてんだよ、買わないなら早く帰れよ、と、あの、妙な客の近くで作業をしだす書店員というこれもまた魔空間が現出し、私はそっと本を棚に戻し、無論、何も買わずに書店をあとにしたのだった。




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