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御聖体

 

 「あなたは厭世家ですね、K。」
ある研究員の一人に言われた言葉が忘れられない。厭世家の私が、四ヶ月の息子を授かっている。それは最大のパラドクスに思われた。
 私は、複製人間である。私と全く同じ姿形をしたオリジナルの素体が、この地球のどこかに住んでいる。そのことだけを教えられて、私は生きてきた。父親がいない。母親もいない。ただ、素体のDNAから作られたレプリカ。人形。鋳型。
 それならば、その私から産まれたこの生き物は、なんなのだろうか。レプリカの子供。新しい種族?
 ある日、私は息子の『さんとお』を連れて、街を歩いていた。先程までは雪が降っていた。私が幼い頃……、正確には、私のオリジナルが幼い頃、雪は冬に降るものだった。今は、毎年雪が降り始めると、夏に至る。雲間から幽かな陽が出たが、もう遅いからか、街は閑散としていて、ちょうど、昼と夜があって、影がなかった。私はさんとおをベビーカーに乗せて、行く当てもなく散歩をしていた。
 夜風に乗って、唄が聞こえてきた。唄、詩、歌。その歌声に導かれて、その声のする方に向かうと、真白な教会だった。街中の教会の庭には、人々が集まって、祝い事の最中だった。夏至の前夜の華燭の典。その賑やかな笑い声に、つられてさんとおもほほ笑んだ。何か、嬉しいことだとわかるようだ。人間の本能だろうか。何の衒いもない、他意もない目だった。併し、幽かな知性が宿り始めている。
 私は空いた席に腰を下ろして、花嫁と花婿を見ていた。彼らを祝う宴。いつしか彼らは媾合の果てに、そのうつしみを授かるのだろう。私とは、隔てた世界にいる。暫く遠目から彼らを見ていると、さんとおがぐずりだした。私はベビーカーを畳むと、さんとおを片手に抱きかかえて、そのまま席を立った。喧噪は、異邦の声に聞こえた。
 中途、思いとどまって、教会の中を見てみようと、足を向けた。小さな教会で、よく見ると、ロシア正教会の建物である。聖堂内は様々なイコンが、所狭しと並べられていて、燭の火が揺らめいている。そのイコンの一つ一つを、私は丹念に見た。西洋と東洋が交じっている。芸術には詳しくはないが、美しいものだとは思えた。
 がちゃがちゃと、何か音がして、そちらへと目を向けると、女性が一人、イコンに絵筆を入れていた。真剣な眼差しで、時折、指そのもので、人物の頬を撫でていた。その光景に見入っていると、女性はふっと息を吐いて、振り向いた。私に気付いたのか、怪訝な顔をして、会釈をした。
「何をされているんですか?」
尋ねるつもりはなかったが、口をついていた。
「修復を頼まれました。」
女性はこちらを見もせずにそう答えると、そのまままた、絵に没頭し始めた。修復とは、どういうことだろうか。私には識らない世界だった。彼女の作業の音に、華燭の歌声が重なっていく。ときおり、さんとおが声を出した。両性具有の声。女の子の声でも、男の子の声でもある。二つが交じっている。
「修復がお仕事なんですか?」
何故だろうか、私は今のこの心地に酔っていて、質問を繰り出していた。女性は振り向いて、考えるように、眉間に皺を寄せた。私に、この妙な父子に警戒しているのかもしれない。
「はい、ああ、いいえ、ですかね。修復は仕事の一つではあります。私、画家なんで。」
「画家ですか。」
「有名ではありませんが。」
「どんな絵を描いているんですか?」
「美術にはお詳しいんですか?」
「いいえ。ただ、きれいだと思って。」
「ああ、それは元々の絵がきれいなんですよ。とても美しい、ロシアの画家が描いたものです。十八世紀のものです。この青も、あの黄色も、本当はもっときれい。」
「産まれた頃ばかりの頃?」
「ええ。そう。とてもね。」
女性は初めてほほ笑んだ。
「それで、さっきの質問の続きです。どんな絵を?」
「識りたがりなんですか?」
「少し。結婚式をしていたからかな。あてられて、気分がいいんです。」
「お友達?」
「いいえ。通りすがりです。」
そうですかと、声にならないほどにか細い声で、女性はそう言うと、手を叩いて、そのままさっさと奥へと行ってしまった。私とさんとおは取り残された。併し、取り残されていながらも、浄福な気持ちだった。それは、ここが教会で、腕の中にさんとおがいるからかもしれない。
 数分もすると、足音が聞こえてきた。顔を向けると、女性がキャンバスを持っていた。両手で持ち、かなり大きい。すっぽりと、彼女が入ってしまいそうだ。キャンバスには号数があるのだと聞いていたが、私には、彼女が手に持つそれがどれに該当するのかはわからない。
「私の絵です。」
彼女は、キャンバスを私の前に置いて見せた。宙空に、白い太陽が浮かび、青い花が詰め込まれている。その太陽から伸びた臍の緒が、大地と別ちがたく繋がっている。私は戦いた。その白い太陽が、さんとおに見えたからだ。
「きれいな絵ですね。」
「まだ未完成。泊まり込んで、時間を見つけて、描いてます。」
「ここに?」
うんと、呟きながら、彼女は頷いた。
「二ヶ月。家賃はただ。絵の勉強をしながら、お金ももらえます。」
「美しい絵ですね。」
「いい絵なのか、自分ではわかりません。いい絵だと、いいんですけど。」
「いい絵だと思います。これは太陽?」
「海。」
海、という言葉が、私に詩想を与えた。青い花々は海。海から伸びた臍の緒。さんとおがまたぐずりだした。私はあやした。さんとおは内弁慶だった。彼女がいるからか、すぐにおとなしくなった。
「海。」
「海。です。太陽に見えましたか?」
「息子に見えました。」
「うん。それでいいと思います。」
女性は、何か嬉しそうに、ほほ笑んだ。さんとおが、急に声を上げて笑った。
「元気。」
「ころころ変わります。この海はどこかモデルが?」
「沖縄。の海。」
沖縄。行った事の無い場所。私は、しばらくその絵を眺めていた。海の絵なのに、陽の匂いがした。
 自宅に戻る。マンションの一室。研究所から割り当てられた、キッチンとバスルーム、トイレ、そして八畳の城。さんとおをバウンサーに乗せて、私はソファに腰を下ろした。さんとおにミルクを与えて、そのときに、上の歯茎の底に、うっすらと二本の前歯が見えているのを発見した。
 さんとおを寝かしつけて、端末に繋ぐと、沖縄の海を検索した。波音が聞こえた。私は、沖縄に行ったことがない。海を見たこともない。あの娘にはあるのだろうか。端末の画像に漂う海は、十数年も前の記録、もとい記憶だ。併し、私に美しい記憶の一つとして、海のさざめきが耳の奥底を流れていくことがあるというのは、素体の記憶との共有であろうか。そのような事例が、複製人間にはあるのだという報告は聞かされていた。
 気が付くと、私も眠っていた。インターフォンに起こされて、さんとおが泣き出した。さんとおを抱きながら玄関に出ると、研究員だった。彼は私に会釈をして、中に入ると、勝手知ったるといったように、洗面所へ向かって手を洗った。コートには、雪がついている。
「また降り出した。」
「年々、勢いを増しています。」
「寝ていましたか。申し訳ない。」
「いいえ。大丈夫です。」
研究員は、ソファに腰掛けると、さんとおを一瞥した。さんとおは、黙って研究員を見詰めた。
「元気ですね。四ヶ月ですか。」
「もう、四ヶ月です。」
「早いものですね。毎日レポートでは拝見していますけれど、実際に見ると、何ら人間と変わらない。」
その言葉には取り合わなかった。彼は、私と馬の合う研究員ではなかった。名前も識らなかった。私を、定義づけることもしないのが、彼の性格だった。
「今日のご用件は?」
「ああ。定期視察、それから、聖骸布に関する研究についての状況が進展しましたので、その報告に。」
聖骸布。所謂、偉人、例えば、イエズス・キリストその人に関連する、或いは当人の遺したと思わしき奇蹟の欠片、遺物、聖遺物である。トリノの聖骸布などが有名ではあるが、所詮は眉唾で、オカルトの域を出ない。その聖遺物と複製人間とを結びつける研究を、合成生物学のケヴィン・ドライバー博士が行っている。複製人間の産みの親。ある意味、私の父親、不在の神だった。
「どのように?ついに、イエズス・キリストの復活が?」
「夢物語だと思っているんでしょう?」
研究員が顔を顰めた。私はかぶりを振った。当然、夢物語だと思っている。二千年以上昔の人間の複製を聖遺物から造り出す。正気の沙汰とは思えなかった。
「そこまでは……。ただ、本当に実現されるのかどうか、半信半疑でね。」
「ご自分の存在は?」
「私の?」
「そう。つまり、あなた自身の存在。それもまた昔の人からすれば夢物語では?」
「僕は夢の産物?」
研究員は頷いた。そうして、鞄から資料を取り出した。私に渡された一枚のファイル、そこには、検体の申し出が書かれていた。
「これは?」
「ご聖体です。」
「ご聖体?」
「さんとお。№310。彼を研究の検体として差し出す要請がある。」
「仰有る意味が。」
「聖遺物から抽出した組織だけでは複製人間は作れません。複製人間はあくまでも複製であって、そこに人組織が必要なのはご自分が一番ご存じでしょう?成人として、産まれる場合、幼子として産まれる場合、いや作られる場合、その素材は異なりますけれども……。」
「つまり、あなた方の悲願のために、さんとおを差し出せと、そう仰有りたいわけですね。」
研究員は微かにほほ笑んで、私の持つファイルを指差した。
「ご聖体になれる命は少ない。光栄なことかと思います。」
「じゃあ、あなたの息子を差し出せばいい。」
「私に息子はいない。いたとしても、私は人間だ。もう、一つの魂を持ってしまった個人です。」
窓外から雪に降られる研究員の後ろ姿を眺めながら、私は腕を組んで考えていた。仮に、さんとおの身体を使って、それに間借りさせて、キリストの素体の一部を組み込んで、何になるのか。何にもならないだろう。さんとおの母親。私は見たことがない。さんとおは、私の胤と、女の卵を使って、この世に顕れたわけだ。産まれ方の違いはあれども、もう命ではないのか。
 うーうーあーあー。さんとおの声が聞こえた。ベッドの上で、吊り下げられたおもちゃを握りしめながら、呻いていた。
「何の歌?」
さんとおに尋ねても、さんとおは何も答えない。
 翌日は雪は止んで、曇り空だった。灰色の空だったが、陽が透かして、明るい街だった。さんとおを連れて、あの教会に行った。聖遺物と聞いて、あのイコンたちを思い出していた。あのイコンを修復している彼女を思い出していた。さんとおをベビーカーに乗せて教会へと向かう。昨日とは打って変わって、静かだった。誰もいない。その静寂の中に、時折さんとおの声が響く。あー、という言葉に、誰かが立ち上がった。彼女だった。私を見て、彼女は会釈をした。あの海の絵は、イコンたちの横に並べられたままだった。
「どうしました?また見学ですか?」
「いいですか?」
「どうぞ。」
彼女は筆を手にして作業に戻った。椅子に座って、膝の上にはさんとおを乗せて、作業を見つめた。さんとおは、何を考えているのかわからない、併し、真剣な眼差しで、時折首をふりふりしながら、彼女の後ろ姿を見ていた。
「沖縄がふるさと?」
「はい。でも、住んだことはないの。記憶の中の。」
「……ああ、複製人間?」
「そう。」
「僕もですよ。」
「この辺り、住んでいるのはコピーばっかりね。」
そう言って、彼女は笑った。
「一度だけ、行ったことはあるの。これは、そのときに見た風景と、今の気持ちを重ねた絵。」
視線をイコンから自分の絵へと移して、彼女は続けた。
「私の素体がいるのを、人づてに聞いたの。雑誌で、インタビューを受けていました。興味本位からかな。一度で良いから、会ってみたかった。いいえ、会わなくても良かった。一目見たかった。あなたなら、わかるでしょう?親みたいなものだもの。それで、一人で沖縄に行きました。彼女、ホテルで働いていたのね。ハレクラニ沖縄。ハワイにあるホテルの、まぁ沖縄版なんですけど。とっても素敵なホテルで、奮発してそこに宿泊したの。ロビーがとても開けていて、そこから海が見えました。夕陽がきれいで。そこのカフェで、海を見ながら、従業員を見ていたの。私に似た人を、私は探していて。でも、急に怖くなって、私は宿泊をキャンセルして、そこから逃げ出したの。」
彼女はひと息でそう言って、自分の描いた海を指先で撫でた。私は何も言わずに、彼女の後ろ姿を見ていた。
「会っても何もなかったかも。何か、あったのかも。」
「何度か、僕も考えたことはある。でも、多分、夢に留めておくのが一番いいのかもしれない。」
「逃げて、こんなところで絵を描いています。」
「逃げて幸せ?」
「逃げて……?うん。そうですね。まぁ、幸せです。」
「それなら良かった。」
話している内に、さんとおは、あーあーと、また声を上げ始めた。私たちの会話がつまらないのかもしれない。
「歌ってる?」
「たぶん。海の詩。」
「海の詩。ああ、波の音。」
彼女は私の膝からさんとおを抱きかかえると、彼を絵の前まで運んだ。ゆっくりと青い花を包んだ円い海を撫でながら、絵の具を指先につけて、そのままさんとおの頬にも撫でつけた。さんとおは驚いて、絵になった。そうして歌うように笑った。聖教徒は、イコンに口づけをするのだという、そのようなことを、私は思い出していた。


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