『作家賞』と消えた作家
先日、ヤフーオークションにて、とある作家の初版本を購入した。500円足らずで購入できて、ほっこり気分。
何しろ読みたかった作家の本であるから。
けれども、Amazonでも、日本の古本屋でも、ヤフオクでも、なかなか出てこない本だ。探すのがウルトラに大変で、これは僥倖、たまたま巡り会えた。
けれども、レアではあるが、単純に初版部数が少ないために、そのようなことになっていると思われる。その作家の名前を検索しても、作名を検索しても、この膨大なネットの海において、わずかにしかヒットしない。高名だから高いわけではない。そもそもが、誰も識らない作家、誰もが忘れてしまった作家である。
その作品の感想はまた後日書かせていただくとして、その作家は賞を受賞している。その賞名はずばり『作家賞』である。
第1シーズンの後、リニューアルして第2シーズンが昭和39年から平成2年まで、延々と27回まで続いていた由緒ある賞である。
『作家賞』とは、名古屋発信の同人誌『作家』の賞で、とある時期から全国の同人にその門戸が開かれた。
発起人は小谷剛である。名古屋に住んでいた彼は、長い間同賞の審査員も務めていた。小谷剛は戦後初めての芥川賞作家でもある。24歳で受賞している。
小谷剛亡き後、作家賞は、名称を小谷剛文学賞に改めて、その後10年ほど続いた。
この作家賞においては、受賞一覧を見ていくと、識らない作家の名前がずらりと並んでいる。プロもいれば、プロではない、あくまでも同人として作家活動を続けている人も多くいる。
この、忘れられた人々、忘れられた作品の中に宝石が眠っている。その宝石を顧みないことは、文芸に縁のない人間ならばまだしも、編集者ならば罪にも値するだろう(と、私は思う。残らないもの、淘汰されたものは逆説的に駄目だと言うのならば、未来からみれば現代の小説もほぼ駄目に値する運命だろう。つまりは私達は駄目に囲まれて、宣伝に騙されて、金を支払っているわけである)。
まぁ、これは言い過ぎかもしれないが、そういう発掘こそが、鉱脈につながるのではないか?
誰もが識っている作家を改めて紹介することに、何の意味があるのか。商売以外、意味はないだろう。あくまでも文芸を仕事にするのであれば、埋もれた作家、埋もれてしまっていた作家、或いは、これから花開くであろう人を掘り起こすことこそ。
西村賢太氏は、氏自身も才能豊かな作家だが、彼は異常な粘着質を持って、忘れられていた藤澤清造を復活させて、ある種、才能以上の存在を持ってして文学史に再び刻み込むという離れ業をしてみせたが、恐らくは、本当に才能の豊かであるが、理解されずに消えた作家というのは、たくさんいるのだろう。時代に押し流されてしまうのは誰しもに待ち受ける運命で、いずれはほとんどの作家は消えゆくが、然し、復活するに値する作家もまだまだ埋もれてもいるだろう。
今の新人賞もそうだろうと思う。私が嫌いな文章は、よく選評や講評などで聞く、「ほとんどの応募作は小説になっていない」というあの文言だが、それならば、そういう貴方様の感想も非常に曖昧で、掴みどころがなく、根拠もなく、評論になっていないと思いますが、一度どうしてそのような結論に至ったのか、貴方様自身の文章を持って、納得させてもらえませんか?と、強く問いたい。
無論、真摯に読んでいる方も多いのだろうが、真摯なのは当たり前。どのような事情があろうとも、作家たちもまた真摯に問いかけているのだから、それを侮辱したりシステムのせいにするのはいかがなものかと思う。
評するものこそ誰よりも詳しく、かつ芸術家の心であらなければいけないのではないか?
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