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少年自身

「迫るような森を背に鳥居がある。そこを潜ると屋敷が見えてくる。ふたなりの主人がお前を待っている。」
お父さんはそう云った。僕はただ頷いて、部屋に戻ると、学生服に着替え、短刀を腰にさし、神島へ向かった。
神島は、巨大な浮島だった。大きな池の中洲だから、舟を渡す。船頭もいない、手漕ぎの舟だ。歩いても辿り着けるけれども、足を踏み外せば、底なしの沼に取り込まれてしまう。

神島はいつも霧に覆われているけれども、七月の僅かな間だけ、快晴に包まれる。
七月の終わり、大雨がその得難い季節に終わりを告げさせると、また霧に包まれる。
僕は舟に乗りながら、ちょうどお父さんの部屋から取ってきた葉巻を胸ポケットから取り出した。咥えていると、安心した。火はつけない。甘い紫色の味がしたのは、もう少し小さい頃、お父さんが噛み切って与えてくれたものを口に挿してくれた、ただその時だけだった。
神島にはすぐに着く。池面を覗くと、何か巨大な魚でも泳いでいそうで、身震いした。この底なし沼は女のようだと人は云う。然し、この島の主人はふたなりなのだ。お父さん曰く、それは、どちらの存在でもあるのだと云う。
僕にはそんな人がいるのは御伽草子の中だけのように思える。
舟をロープで留めて、そのまま中洲に降りて、すぐ見えてくる鳥居を潜った。お父さんの言う通り、すぐにその先に建つ大きな屋敷が見えてきた。
一度遠目では見たことがある。それは、七月のよく晴れた、霧のない日のことだった。
大正時代が西洋に犯されたような屋敷だった。くすんだ朱色の壁には、ところどころにひび割れがある。
門前に立ち、二度拳でトントンと叩く。暫くの間音沙汰がないから、ゆっくりと開けて、こんばんは、と呼びかける。すると、奥に火が揺らめいて、お待ちしておりました、と、その主人が顔を出した。
ふたなりとは、男でも女でもある人だとお父さんから聞いていたけれども、霧に慣れない目では、その明らかな違いはわからなかった。
ただ、その人は切れ長の目をしていて、唇が朱く、肌は抜けるように白かった。
「おや。美しい少年だね」
そう云われて戸惑っていると、そのふたなりの主人はそっと僕の頬に両手をあてて、唇に人差し指を当てた。
「父の申し付けで、ハドリアヌスタケを取りに参りました。」
ふたなりの主人を遮るようにそう云うと、主人は静かに頷いて、
「この世に二つとない珍品だ。あれがどういうものか識っているの?」
そう微笑んで、さっと両手を下ろした。
僕は首を振った。
「どこにあるのですか?」
「まぁ、上がり給え。座敷でゆっくり見せてあげましょう。」
僕は頷いて、そのまま屋敷の奥へと進む主人の後ろ姿を追った。妙な匂いがする。獣の臭いだ。その耐え難い臭気に呼吸を止めて、ずっとずっと長く続いていく廊下を行く主人の背を見つめる。
しばらくすると、廊下の奥に橙色の灯りを透かしたビイドロの窓が見えてきた。
何かが揺らめいている。炎かしらと、そっと、ふたなりの主人の背に隠れながら首を伸ばすと、ちょうど主人が振り返り微笑んだ。僕は驚いて顔を引っ込めた。
真白な手がドアノブを廻してその扉が開くと、古ぼけた書物が山と積んであり、足の踏み場もないのだった。
背表紙には、様々な外国の言葉が並んでいる。日本の古語も幾つも並んでいる。そうして、机の上に乱雑に重ねられた本と本の間には、燭台が幾つも置かれており、その揺らめく炎がビイドロを照らしていたものの正体だった。
乱反射するそのビイドロに目元を近づけると、薄い別世界があるように思えた。
天井に目をやると、そこには、一面紫色の花が咲き乱れている。魔の天国かもしれなかった。
僕はゆっくりと置かれている本に手を伸ばした。どれも古めかしい本で、なめされたカバーの感触は、どこか生き物めいていた。鱗のようだった。
主人は迷うことなく、燭台を倒すこともなければ、本を倒すこともなく、スイスイとその縫い目を進み、部屋の奥へ奥へと進んでいく。
僕は主人の足跡をそのままに、倒さないように、最新の注意を払って、後に続いた。そうして、
「これが、ハドリアヌスタケだよ。」
彼は、ホルマリン漬けになって置かれている、その異様なきのこを僕に見せた。
きのこですか?」
「うん。奇形の菌だよ。これはね、曰く、無類の新属と思うPalloideaeの一品あり。記憶のままに申し上ぐると、上図のごときものなり。生きたときは牛蒡の臭気あり、全体紫褐色、陰茎の前皮がむけたる形そっくりなり。
そう、書物には表現されている。本当には、ちゃあんとした同種がいるが、これは奇形なんだ。」
「どうして、ハドリアヌス皇帝?」
僕が尋ねると、主人は目を細めて微笑んだ。こうして、闇の中でその顔立ちを見ていると、彼と呼ぶべきか、彼女と呼ぶべきか、或いは、その何方どちらでもないのか、より一層に判りかねてくる。
燭台に載せられた火が揺らめく度に、主人の顔は男性と女性の間を自在に行き来している。掴みどころのない炎である。
「ハドリアヌス皇帝は美しいアンティノウスに愛情を注いでいた。彼は男色家だった。いや、古代希臘においては、同性愛が通常であって、異性愛が偽物だったのだよ。それは識っているかい?美しい青年アドニスはどうだ?彼は詩想を、童話を、神にすら歌わせた。」
僕は首を振った。そうして、そのホルマリンに漬けられた蛇のようなきのこかすかに動いたように見えて、ゾッとした。
「これはハドリアヌスの魔羅まらのように見立てられて、そのような名前がついたのだ。いや、或いはアンティノウスかな。アドニスかもしれない。西洋人は通常時は前皮は半分被っているだろう。」
そう言うと、主人はまた微笑んでみせて、僕はそれをお父さんから頼まれていたことを思い出した。
「それをお譲りくださるのですか?」
主人は頷いて、
「御前の父親は色々と研究をしているようだね。」
「それにはとても不思議な効能があると聞きました。父の研究に必要なのです。」
「そうだ。不思議な効能。子供の御前にそれが効くのかどうかは識らないがね。」
「どのような効能でしょうか?」
ふたなりの主人は書物だらけの部屋の中に動くことも出来ずに居座っている椅子に腰掛けると、じっと僕を見つめた。
「子供は邪悪なものだ。大人が一番恐れているものを恐れないし、欲しているものを欲さない。」
僕が答えられずにいると、
「バカの魔羅自慢、という言葉がある。或いは、バカのくせに女の泣くものを持ち。ハドリアヌスタケは見ての通り、バカの魔羅自慢だ。けれども、その名前に反していてね、だってハドリアヌスはきっとアンティノウス同様に、タケノコだろうからね。世の中にはマツタケ型とタケノコ型があるわけだ。まぁ、頭巾を被せたようにも見えるから、タケノコともいえるのかな。このきのこはそういうものだ。
御前だってそうだろう。少年は皆そうだね。日本人は特にその傾向が強い。
いずれにせよ、タケノコ型というのは、英雄や聖者や軍神、それに天使が該当する、魔王だってそうかもしれない。
こんなことを云った作家があって、それには私も同意見だ。美しき少年のタケノコは魔王のつるぎなりけり。ハドリアヌスタケは大人と少年の淡いの象徴なんだよ。つまりは、強烈な媚薬たらしめているということだ。」
僕は主人の言葉の意味がわからずに、ただ、不気味な、何か大きな谷が、この人の中にあるのではないかと、おののくくようだった。
腰に差した短刀の柄を自然握りしめる。主人はそれに目を向けても咎めもせずに、ハドリアヌスタケの入ったホルマリン漬けの瓶を持ち上げて、ついてくるように首で指し示した。
そうして、部屋を出て振り返ると、僕は後ろ髪の引かれる思いがした。妙な心地だ。何か、重要な何かが、僕の心を弄ぶようだった。
そうして、廊下を歩いていると、遠くに木菟みみずくの啼く声が聞こえて、それは女の叫ぶ声のようでもあった。
「もう月が出ているよ。」
主人はそう言うと、廊下の窓から見える巨大な月をその細長い指で指し示した。
「お月さまは私と一緒なんだ。」
「どうして?」
「半陰陽だからさ。ステッドラー社の鉛筆について。その鉛筆のマークのお月様は、よく見ると女か男か、子供か年寄かわからないようなかおをしていました。はて、これは何事であろうと思っていたところ、つい先日やっと、フランス語及び英語ではお月様は女性名詞だが、ドイツ語では男性であるということに思い当たったのです。今はこれだけの鍵をお渡しして、あとはみなさんの方で適当に考えていただきたいと存じます。こんなことを云った作家がある。」
そうして、話をしながら、気が付くと客間に導かれていて、そこには一枚の布団が敷いてあった。
「もてなす用意はしていないないからね。今夜は月夜だから、媚薬が無くても危ないよ。一晩、泊まっていくんだね。池に住む巨大な主が凶暴になる。舟ごと食われるよ。」
僕は、ふたなりの主人の出した御膳を平らげると、風呂を借りて、汗を流した。そうして、学生服は綺麗に畳んで、置いてある浴衣に袖を通した。
部屋に戻る間際、窓から差し込む月光を手で掬おうとして、然し、お月さまは何も云わなかった。
僕は部屋に入り、布団に潜った。もちろん、短刀は手放さなかった。短刀の鞘を握りしめて抱きしめると、途端に安心する。僕は、お父さん、と一言呼んだ。
ずるりずるりと、何かが這う音がして、僕は耳をそばだてた。何か、蠢いているものがいる。僕は静かに短刀の柄に手をやると、掛け布団からそっと、顔を出した。
ちょうど、青いお月さまの光でそれはそれはいっぱいになった部屋で、
ふたなりの主人が僕の上に覆いかぶさるように顔を近づけていた。そうして、ふいと起き上がると、主人は浴衣を脱ぎだして、美しい乳房があらわになった。僕は赤くなって、然し、主人はただ僕の耳元にそれを近づけて、その後に首元に歯を突き立ててきた。
「御前はかわいいからね……。」
声は、男と女が入り交じるようで、途端に妙な匂いがしているのに気がついた。あの、ハドリアヌスタケの匂いと同じだと、あれは媚薬だと、そうふたなりの主人が云っていたことを思い出して、ぐっと主人の肩を押して
身体を離そうとすると、主人はきっと僕を睨んで、その背の向こうの月がくるんと揺れた。そうして、先程歯を突き立てられた場所に指先で触れると、赤い血が滴っているのに気づく。青い光の中でそれは紫色に輝いている。
「貴様、もののけの類だな。」
僕は短刀を引き抜き、ふたなりの主人にそれを向けると、主人は甲高い声で笑いだして、みるみるうちに巨大な眞白い蛇になった。大蛇は二叉の舌をチロチロと近づけて、かすかに、その白い腹は脈打つ血管のようになって、朱い流れが透けて見える。
僕は、短刀を引き抜くと、一閃でその静脈に突き立てて、それを上に押し上げた。蛇は、凄まじい鮮血を撒き散らして、おどろおどろしい声で呻きながら、部屋から出て行ってしまった。
僕は短刀についた血を布団で丁寧に拭き取ると、妙な匂いを放つそのきのこを持ち上げて、部屋に置かれた様々なものの中から適当に選んだキャラメルの大箱に丁寧に入れた。
「媚薬。」
そう言っても、媚薬とはなにか、僕にはそれがわからないのだ。そのまま箱を抱きかかえて、真っ青な月の見える外に飛び出して、船着き場から舟を漕いで神島から離れる。空を見上げると、星は瞬いていたが月がなかった。
家に戻ると、一目散にお父さんの元へと向かった。そうして、神島で起きたことを、一気呵成に話して聞かせた。
お父さんは、僕の頭を撫でて抱きしめると、
「タケノコとマツタケの違いか。面白い話だな。」
そう云うと、お父さんはキャラメルの大箱から取り出したきのこを見つめながら、ハドリアヌスとアンティノウスね……、と一言囁いて、
「英雄か軍神か聖者、もしかして魔王かもしれない、か。お前のことだよ、息子よ。お父さんもそうだった。父愛せども弑するはアドニス天体嗜好性、その繰り返しなり。お前にもこの言葉を鍵として渡しておこうか。」
その言葉に、僕は、自分のパンツの中のものを思い出して、そっとひっぱって「少年自身」を、僕自身を覗き込んでみた。



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