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何も持たないこと

つげ義春の『無能の人』の最終話は『蒸発』というタイトルで、そこでは井上井月いのうえせいげつの人生が主人公や友人の山井と重なって描かれる。

井上井月は俳人で、同時に放浪の人である。
井月は生まれてから中年までの所在が一切わからず、30代の後半からの人生が判明しているが、彼は放浪の人で、乞食として子供などに馬鹿にされていた。シラミ井月とも呼ばれていた。

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然し、あんまり気にせずに、俳句を詠み続けていた。

私は井月に関してはよく識らず、つげ義春の漫画で識った口だが、つげ義春は大変にこの人物に感情移入している。

主人公の友人の古書店主山井も、井月のような人生を送っている。
然し、馬鹿であると同時に、なんと豊かな人生(心)でもあるのだろうか。

まことの修道僧とは四弦琴のほか
何者も己が所有とは思惟せざる者なり

とは辻潤の言葉であるが、彼もまた、茄子色の歯の色をしていて、この男が自分の愛する『阿片吸引者の告白』の翻訳者かと、稲垣足穂を驚愕させた人であるが、然し、段々と、先の彼の言葉通りに、その薄汚れた姿こそが、真の意味でのダンディズムであることを理解することになる。

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辻潤はかなり精神的に向こう側に渡っている人だが、然し、私には彼の言葉は到底真似の出来ない、美しい思想だと思える。

私なんか、物欲に塗れているので、どうしようもない。本当は全てを捨てなければ、藝術の高みには到達出来ないわけで、名声、金、権力、承認欲求を満たそうとするのは、どこまでも俗に浸っていく、天国から地獄へと本当には堕ちていることを、作家たちは識らなければならない。

彼もまた、井月同様に最後にはシラミまみれで死んだ人である。餓死だそうで、空腹の末に死ぬことは、どれほどの苦しみだろうか。

彼は、宮沢賢治の詩集を高く評価していた。それは、彼が誰かに見つかる前、誰よりも早くである。『春と修羅』が刊行された、その年にである。生前に、彼を見つけていた。

宮沢賢治の『春と修羅』は、自費出版で、『注文の多い料理店』と同じで1000部刷ったがほとんど売れ残った。今は、30部ほどしか現存しておらず、まぁ何百万もするわけだが、賢治は明らかに他の文学者とは異質で、重要で、誰よりも巨大な世界を内包していたわけだが、無名のままに死んだ。

誰かを見つけることも、真の文学者、真の評論家であろう。
肩書や賞というのは全く危険な代物であり、目を濁らせる。放浪者、つまりは漂白者、バガボンドであるわけだが、放浪の果に何を見るのか。

アルチュール・ランボーは、海に溶けゆく陽に永遠を見た。そして、詩を捨てて、死んでいった。
文学は、本当には文学とは別の場所から生まれる。何かを捨てたときにだけ、それは少しだけ、顔を見せてくれる。



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