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【神戸】【アート】デ・キリコ展に先駆けて①【芸術の秋】

 ようこそ、ライターのLil Naoです!
 以前の記事で、皆様たくさんの「スキ」をいただきましてありがとうございます。
 また今回も、記事をご覧いただいてありがとうございます!

 さて、今回は【デ・キリコ】に関してなのですが、名前を聞いたことがない方も多いかと思います。
 今年4月から8月の間、東京都美術館で開かれていた【デ・キリコ展】が、現在は神戸市立博物館にて、9月14日から12月8日の間開催されています。
 Lil Naoも今月訪れる予定なのですが、実際の作品を見る前に【デ・キリコ】生涯考え方代表作などをまとめてみようと思います。

〇おススメの方
▶デ・キリコ展に行かれた方、これから行こうと考えている方
▶デ・キリコという名前を初めて聞いた方
▶アートに興味がある方

 今回はこちらの書籍を参考にさせていただきました。
 では書いていきましょう! 


1.デ・キリコの生涯

 デ・キリコの作品を見ると、いったい何を描いているのかわからないものが多くあります。
 『デ・キリコの絵は謎そのものだ』と言われていたそうで、その背景がわからないと読み解けない作品ばかりです。
 まずはデ・キリコの生涯を振り返っていきましょう。

 デ・キリコは1888年、ギリシア中部の港町ヴォロスにて生まれ両親はともにイタリア貴族の身分でした。
 あのゴッホが拳銃自殺する2年前のことです。
 その中で、さまざまな言語や楽器を習いながら育ち、12歳の時に一家でアテネに移住。
 アテネでは美術学校を兼ねた理工科学校に入学し、4年間勉強に励みました。

 1905年、父親が亡くなりひどく傷心しますが、美術館へ通い、巨匠たちの絵画を模写しながら過ごし、翌年ドイツの王立美術学校に合格しました。
 そこで3年間絵の修行に励み、また哲学も学ぶ中で、ニーチェの思想に触れ、強い衝撃を受けました。
 
 1910年、深刻な鬱に悩んでいたデ・キリコは、ある秋の午後、広場のベンチに座っていました。
 すると普段見慣れていたはずの風景がいつもと違ったものに見え、自分の描くべきものを発見しました。
 この頃から、『形而上絵画』という新分野を開拓していくことになります。

 1911年、デ・キリコはピカソの紹介で、最愛の親友となる詩人アポリネールと出会います。
 アポリネールはデ・キリコの絵を「謎そのものだ」と称し、2人は最期まで交友を持つこととなります。
 1914年、第一次世界大戦が勃発すると、デ・キリコはイタリアにて軍役を志願しました。
 しかし病弱だったため軍病院に配属され、そこで再度心を病んでしまいます。

 1916年、友人アポリネールが戦死し、デ・キリコは激しく落ち込んだ生活を過ごしました。
 終戦後、軍を去ったデ・キリコは、古典作品に強い影響を受け、題材を変化させていきました。
 この頃のデ・キリコは「シュルレアリスム」という芸術運動のリーダー的存在でしたが、その運動はデ・キリコの題材の変化を受けて、サルバドール・ダリをリーダーとする運動へと変化していきました。

 31歳になったデ・キリコは、古典絵画を題材とした絵画を描く一方で、自身の初期作品のコピー作品を多く制作しました。
 セルフ・オマージュという手法もこの時代ではとても新しく、コレクターや美術館に大混乱をもたらしました。

 1930年、最愛の人イザベラ・ファーと出会い結婚し、さまざまな創作活動に精を出します。
 1960年頃からは「新形而上絵画」と呼ばれる、自身が20代に描いた絵画の要素を再解釈し、新しい絵の世界を作り上げていきました。
 1978年11月、デ・キリコはイザベラ・ファーに見守られながらローマの病院で亡くなりました。

2.おわりに

 今回はデ・キリコの生涯について振り返ってきましたが、両親・友人の死、戦乱の世の中で自身の描くべきものを追求した人物でした。

 一見しただけでは理解しがたい絵画を作り上げたデ・キリコでしたが、後世の様々な画家に影響を与えており、美術史において非常に重要な位置に存在していた芸術家であったと思います。

 次回は、デ・キリコの考え方代表作に触れながら、より深くデ・キリコを探っていきたいと思います。

 今回も読んでいただいてありがとうございました!
 次回もよろしくお願いいたします!

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