【インタビュー】石田裕己さん/ 批評執筆と活動について

こんにちは!株式会社リクルートホールディングスが運営するアートセンタ「BUG」のスタッフです。

BUGでは、活動方針の一つであるアートワーカー向け支援として、批評家のネットワーク構築、発表の場の提供を行っています。
支援の形としてどのようなことがあると良いのか、まずは知ることを目的に、トークイベントの開催や、批評執筆の依頼などに取り組んでいます。

今回、取り組みの一つとして、第1回BUG Art Award ファイナリスト展の展評と、自身の好きなテーマでの批評、2本の批評執筆を石田裕己さんと水野幸司さん、2名の方にご依頼しました。

※石田裕己さんに執筆いただいた批評は以下よりご覧ください。
・展評 - 第1回BUG Art Award ファイナリスト展
・批評 – 未成熟と脱規範性、そしてその彼岸 奈良美智論へのイントロダクション

当日は、石田さん、水野さん、お二人の対談という形で実施しましたが、ボリュームがあるため、記事分けてインタビューという形でご紹介させていただきます!

現在、石田裕己さんがこれまでどのような活動をしてきたのか、直近の活動から今後の展望について、お話を伺いました。

石田裕己/Yuuki ISHIDA
2001年生まれ。神奈川県出身。
ソロコレクティブ「ペンギンプラネット」を標榜し、展覧会やパフォーマンスを企画するほか、執筆も行う。過去に企画した展覧会に「手なずけるとか手を噛まれるとか」(JUNGLE GYM, 2023年, 兼キュレーション)、パフォーマンスに「てなかま THE LIVE」(アートサロン えん川, 2023年, 兼制作・出演)、執筆テクストに「鑑賞者と芸術がともに思考する作品を求めて。石田裕己評「惑星ザムザ」展」(ウェブ版美術手帖, 2022年)がある。東京大学文学部美学芸術学専修在学中。
https://note.com/ut_hitorigoto/


― これまでの執筆活動やそれ以外の活動について教えてください。

僕は水野さんとは違って即興でお話しするのが苦手なので、与えられたお題に即して、話すべき内容をまとめた原稿を用意しました。きちんと話し言葉として整えているので、これを読み上げてるだけでもけっこう何とかなります。そしてこれの読み上げが記事化に伴って再び文字起こしされちゃうわけで、だいぶ不思議な話ですよね。文字から音声へ、そして音声からまた文字へ、と。文章読みながら書き手の声を想像するタイプの人もまあいらっしゃって、そうした人々は想像上でもう一回文字から音声への加工を行うわけで、何重なんだ、って感じですよね。文字を文字のまま、音声をあんまり想像せずに読むことができる人もいるんでしょうけど…
 
今僕が見て喋っている原稿とだいたい同じ文面が記事になる、とも言えそうです。内容を理解するためにウェブ上のテキストを見つめるという読者の行為が、読み上げて声にするために同じテキストを見つめるという、いままさに進行しつつある行為に重ねられる、って感じです。

大学2年生のころに「お泊まり会」という展覧会でキュレーターをしました。記号としてのキャラクターをメディウムとして操作して……みたいな方向性とは異なる、生命を付与するようなキャラクターアートの可能性についての展覧会でした。

キュレーターって言っても、そういう内容の1万字くらいの文章を書いて配っていた以上に何かをやっていたわけではないし、メインのキュレーター兼出品作家であるnekoさんの呼びかけに応答して文章という形式で作品を作ったという認識が今では強いです。
いわば出品作家だったんだな、と今になっては思います。とはいえ、それがすぐに仕事に繋がる感じはなく、半年くらいはくすぶっていました。ちなみに今現在、この展示の続編企画が動いていたりします…!

大学3年生のころ、翌年のキュレーション展を準備し始めているころに、美術手帖で「惑星ザムザ」評を書くことになりました。そしてその流れのもと、残りの約半年は文章を書いたりパフォーマンスをしたりしてすごしていました。そのころ書いた文章だと、「宣言(マニフェスト)としての地図 吉原遼平「地続きのものたち」評」がお気に入りです。

とはいえ美術手帖での執筆に関しては、今から考えるとこの経緯は何なんだ、ととても思います。Twitter(現X)上でアピールすることによって仕事を獲得したわけだけど、そもそもとして僕と担当キュレーターの布施琳太郎さんには若干の関係があったわけで、それに依拠しようとする気持ちがあったのではないか。つまり、中心的な複数人周辺の人間関係のネットワークが、その展開に大きく影響してしまうという、東京の現代アートに見られるような状況に乗っかってしまったのではないか、という反省はすごくあります。
もちろん、人間関係みたいなものを美術の流れから完全に切り離すことは無理なんだけど、とはいえその人間関係に参入することで一定のポジションを得ることができて…みたいなエコノミーが東京を規定しすぎてしまっているんじゃないか、という直観があります。

上記のような認識の吐露への反発もあるかもしれないです。でも、現代アートの領野で目立っている若手の書き手を集めた結果として生じているこの対談の場それ自体が、そのことの証拠になっているのではないか、とも思うんですよね。目立ってる若手の(20代前半くらいの)書き手みたいな人々をピックアップした結果、われわれ二人を選ぶのがまあ「妥当」だろう、ってことになったらしいんですよね。でもその二人は、人間関係のネットワーク的にある程度近しいところにいるといえそうなわけです。もちろん、これはリクルート側の怠慢であるということもできるとは思うのですが、信頼できる専門家の方々も選出に関係したりはしているらしく、まあわれわれが目立ってしまっているのはある程度受け入れないといけないだろうな、と思っています。では目立っている原因とは…?ですし、この状況に対して不服に思っているであろう同世代の、きっと多くいらっしゃる人々がその声を響かせる事態が生じるべきだし、それによって布置が大きく変わってほしい、と僕としてはとても強く思っています。何様なんだ、という感じでしょうが…。

もちろん、こういう現状認識を前提としつつなんとかずらしていこうと尽力されている方々はたくさんいらっしゃると思うし、それまではほとんど面識がなかったのにも関わらず僕に力を貸してくださったみなさまが目指していたのもそういうことだったのだろう、とも思います。そういった人々への感謝・返答といったところもあるのかもしれませんが、以降はそのゲームに乗っかっていることにかなり意識的になりつつ、その状況に対して何ができるんだろう、って思いながらいろいろやっています。

そして、2023年(大学4年生)は、二つの大きな実践、「手なずけるとか手を噛まれるとか」と「てなかま THE LIVE」をやったのち、基本的に家と図書館にひきこもって卒論の執筆と院試準備を進めていました。その甲斐あってか、卒業と進学が確定して現在に至ります。卒論の内容は直近の活動としてお話しします。。


ー それ以外の活動についてはどうでしょうか?

若干一般論を述べるところからはじめていいですか。
作家が自身の実践についてぜんぜん具体的に説明することなく、たとえば「この世界にバグをひき起こそうとしました!」とか、あるいは「作品との出会いを通して異なる世界を立ち現わせようとしました!」みたいな抽象的で若干大言壮語的な理念を述べることってそこそこあると思うんですけど、そういうのって基本的に話半分で聴くべきだな、って思います。虚飾みたいな感じである可能性もままあるから。まあこれは鑑賞者のリテラシーの問題というか、素朴に受け止めずにちゃんと実践に注目する態度を身に着けようという話でしかないんですけど、とはいえ言葉を用いた活動、執筆とかキュレーションとかも行う作家がそういうこと繰り返すのはどうなんだろう、という気持ちはあります。

僕はそれを避けたいので、理念的な説明からはなるたけ距離を置きつつ、何をやっていたのかという具体的な行為に即して、3つの活動について説明していこうと思います。それらはみんな、僕のソロユニット「ペンギンプラネット」が企画したものです。「ペンギンプラネット」はアーティスト活動をするための名義である、といってしまえばそれまでなんですが、小沢健二さんと小山田圭吾さんが組んでいた伝説的なバンドであるフリッパーズ・ギターとか、小山田さんのソロユニットであるコーネリアスとかへのわりと素朴なあこがれもあって、音楽ユニットみたいな感じが出せたらいいな、って思ってます。パーフリへのあこがれがある以上、相方的な人がいてもいいのかもな、とはつねに思っています。積極的に募集はしないですが、万が一声がかかることがあれば、みたいな感じですね。

一つ目は「奈落のいる派マスター」。2022年の年末にアーティストの小寺創太さん企画で開催された、「TOMO年越美術館 2022-2023 いる派PRESENTS 身体アンデパンダン24時」で発表したものです。アンデパンダンという名の通り、このイベントは登録すればだれでも参加できるものだったのですが、同年に開催された小寺さんと江口智之さんの展覧会「ストーンテープ~見たら呪われる展示~」の図録に文章を寄稿したことがきっかけで参加を決意しました。小寺さんとの間に、ご依頼いただき執筆した以上の関係性はなく、対面で会話をしたのもパフォーマンスの日がはじめてだったんですけどね。

おおみそかの間ずっと、ホウキをじゃかじゃかと演奏し続け、ときおり立ち上がっては小寺さんのツイートを叫ぶ、というパフォーマンスでした。サンボマスターのシャウトをイメージした叫びでしたし、なんなら途中で実際に「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」を歌ったりもしました。

今ここで歌っても大丈夫ですか…?

新しい日々をつなぐのは 新しい君と僕なのさ
僕等なぜか確かめ合う 世界じゃそれを愛と呼ぶんだぜ
心の声をつなぐのが これほど怖いモノだとは
君と僕が声を合わす
今までの過去なんてなかったかのように歌いだすんだ

二つ目は「手なずけるとか手を噛まれるとか」。水野さんにも参加していただいたキュレーション展ですね。

「惑星ザムザ」評をきっかけにして、田中勘太郎さんからお声がけいただいて、ちょうど去年の今頃に東十条のJUNGLE GYMで行いました。ご出品いただいたみなさまの作品がある展示室には30分に3分しか入ることができず、その代わりにアーティストのみなさまへのインタビューや、キュレーターを名乗る僕が翻案し街中に設置した作品的な何かを鑑賞してもらう、という形式を採りました。作品が展覧会という流れの中に位置づけられることでそれが持つ様々な可能性のうちの一部が前景化することや、会場の周辺を歩く経験と作品鑑賞の経験の切り離しがたさ、みたいなことにすごく興味があったんですね。展覧会の詳しい説明は、僕の姉である全肯定ペンギンさんにご執筆いただいた批評「石田裕己 この人を見よ」にまとめられているのでぜひお読みいただければと思います。展覧会に対して批判的な文章でもあるので。

三つ目は「てなかま THE LIVE」。「惑星ザムザ」への応答を謳って「てなかま」が開催された流れを自己模倣するように、「石田裕己 この人を見よ」から出発して全肯定ペンギンさんと一緒に作ったパフォーマンスです。会場は初台のアートサロン えん川で、これがたしか去年の8月のことでしたね。アシスタントである小倉久典さんの協力のもと僕一人で演じました。「ギャラクシアンタイフーン」を主人公とするヒーローショーをスタチュープレイで表現していたところから、悪役「エビルエイリア」の攻撃「ルナティックナイトメア」をきっかけに様々なことが生じていって…という内容になっています。

SMグッズで拘束されて体に食物を盛りつけられたり、「奈落のいる派マスター」を再演して「オレは首輪を自分で買ってきちゃうような人が好きなんだ」って叫んだり、小倉さんと「青春アミーゴ」をデュエットしたりもしました。あ、僕が亀梨です。鳴り響いた携帯電話、って感じです。さらには近くの公園に移動してどんぐり採集をしたり。ちなみにヒーローショーパートでは一人二役をやってました。ギャラクシアンタイフーンを僕が自分の声で演じつつ、女性の声を機材から流し、それに僕が口パクをする、ってかたちでユキさんっていうヒーローショーのお姉さんみたいな人も演じたんですね。鑑賞した妹・系譜ペンギンさんに書いてもらった記事を公開しているので、ぜひ読んでいただければ、と思います。



― 現在の活動について教えてください。

活動って言っていいのかは分からないですが、ここ最近まで注力していたのは卒業論文で、一応その内容をかいつまんでお伝えできれば、と思います。7万字あるところを端折りまくって要約しているので、組み立てたロジックがぜんぜん伝わらないと思うし、本当は実物を読んでほしい、というところもあります。もし興味をお持ちいただけたら、メール(iyuukii1015@gmail.com)までご連絡いただければな、と。

卒論は、現代フランスを代表する哲学者であるジャック・ランシエールの芸術論についてのものでした。「コンセンサスの時代への介入――ジャック・ランシエールの芸術論における現状認識」というタイトルです。若干単純化して説明すると、ランシエールはもともと政治哲学畑から出発した人だったんですけど、90年代後半からゼロ年代くらいには美学の領野に軸足を置くようになったんです。『感性的なもののパルタージュ』とか、『解放された観客』とか。とはいえ政治の問題は常にランシエールの中心にあり続けています。政治と美学・芸術を同一の視座から扱う独特の姿勢があるんですね。

僕の卒論の文脈で重要なのは、ランシエールが「政治」という語をとても狭い意味で、つまり、これまで公的な決定に参加できないとされていた人々が参加できる存在としての自己の姿を可視化させ、その声を響かせる変革的な契機のみを指すものとして再定義している、という点です。これによって、一般的には政治的なものの領域に属すると見なされるさまざまな営為が政治から切り離されます。また、「可視化」「声を響かせる」という表現を使いましたが、ランシエールにとって「政治」は誰が/何が見えるか、あるいは、誰の声がいかなるものとして聴こえているのか、というような感性の問題と関わるものとしてあり、ゆえに美学や芸術と接するわけです。

そしてランシエールは、90年代以降の、つまりは冷戦終結以降の世界は、こうした意味での「政治」がほとんど発生しない「コンセンサスの時代」になりつつあると主張します。「政治」の発生を妨げるようなファクターがいくつも成立していく、ないしはもともとあったファクターが強化されていくようなイメージでとらえてよいと思います。

この主張が芸術論と密接に関係しているんだ、っていうのが、僕の論文の中心的な主張です。芸術の支配的潮流はファクターに加担しているんだと批判したうえで、そうしたファクターに抗するような仕方で機能する芸術を見出し擁護するというプロジェクトが、『解放された観客』や未邦訳の『美学における居心地の悪さ』には見いだせるんだぞ、と。

これ自体は穏当な話だとは思うのですが、「解放された観客」と時代状況との密接な関係を論じられたのはけっこう大事だったんじゃないかな、と思います。これは有名な論考で、美術批評とかでもけっこう援用されるんですけど、その受容の仕方に違和感があったんですよね。受容として間違っているんじゃないか、と思ったというよりは、そう受容して本当に豊かな成果が得られるのだろうか、と疑うようになったというか。その疑問が出発点にあったわけではなくて、はじめは「解放された観客」をふつうに読んで、その主張にかなり惹かれるところからはじめました。

ランシエールはまず、エネルギーや知識を伝達することによって鑑賞者を政治的な行動に至らしめて、みたいな政治的芸術のモデルを、「愚鈍化」につながるという理由で批判します。つまり、導かれることによってはじめて動くことができる存在としての自分、という負の自己意識を鑑賞者に植え付けるような性質があるんだ、と。それに対してランシエールは、愚鈍化することなく、個々の鑑賞者が自身に固有の経験の蓄積に即して行う解釈を活性化させるような作品にこそ政治的なポテンシャルがあると述べるわけです。一節を引用しましょう。「観客は観察し、選択し、比較し、解釈する。自分が見ているものを、違う舞台のうえや別種の場所ですでに目にした様々なものに結びつける。そして自分の目の前にある詩を構成する要素を使って、自分自身の詩を組み立てる。パフォーマンスを自分なりにやり直すことで、それに参加するのである」(註1)。

となると解釈の余地とか複数性とかを称揚する、みたいな話として受容するのがまあ自然で、実際そう読まれているんですけど、今ほんとうにこの感じで芸術の可能性を擁護できるのか、とか、本当に伝達的な作品をみんな「愚鈍化」として切り捨てていいのか、とか思って。そこで僕は、この論考が依拠しているランシエール自身のかつての教育論『無知な教師』との間にある亀裂や、『解放された観客』に収録されている他の論考とのずれを強調しました。それによって、「愚鈍化」を浸透させて人々に自身の知性を軽視させる事態が「コンセンサスの時代」における国家のなかで広まっているという状況へのカウンターとして、解釈のかなり過激な擁護に至ったんだ!と主張するに至ったんですね。

そして、特定の状況というコンテクストのなかでランシエールの論が組み立てられているという前提があるとすれば、ランシエールが想定する状況と現在の状況とのあいだにある差異が重要になってくるわけです。ファクターが変動していたとすれば、それに対抗できる芸術のありようも異なってくるわけで、ランシエールの芸術論を今受容しようとすればその検証がとても重要になってくるのではないか、と。そのことを駆け足気味で論証したりもしました。

本当に要点だけをまとめた感じになってしまったので、たぶん読んでもらった方が早いんですね。申し訳ないことに公開する気はあまりなく、ぜひにメアドまでご連絡いただければ……。

後はほんとうに補足的かつ唐突な話なんですけど、下北沢国際人形劇祭という、世界各地から集められた人形劇作家たちが集うイベントがつい最近開催されていて、デイリージャーナルの編集部の募集に応募し、参加しました。

人形劇を見て短評をその日中に書いて翌日に新聞にして配る、というかなり急ピッチなスケジュールで。僕は執筆だけしていたのでそんなに大わらわではなかったんですけどね。僕のものも含むすべての記事をウェブ上で読むことができるのでぜひ。


― 今回、BUG Art Awardの展評を書いてみてどうでしたか?

文章にも書いたことなので繰り返すのはあれですけど、今回我々に与えられたミッションはある程度明確だったような気がします。つまり、アワードにおける審査や賞を誰が取ったかという事実からは自律した批評を別に公開することで、いくら厳密にやっても恣意性を帯びざるを得ない審査を相対化してほしかったのではないか、と。それを意識して、それぞれの作品の特異性を何とか引き出せれば、って思って執筆しました。可能性を見出すとしたらここでは、という指摘というか。
 
こういう事情について冒頭である程度の字数を割いてわざわざ書いたのは、そういうものとして読んでね、っていう誘導みたいなところもあったのですが、公開時期的になかなか難しくなっちゃっていたのかな、という感じもあります。

― 今後の活動について教えてください。

一つだけはっきりしているのは、僕は今年の春から大学院に進学する予定で、そこではおそらく現代美術の研究、より具体的には奈良美智さんの研究を進めることになるだろう、ということです。どういう切り口で行うのか、というのはまだあんまりはっきりしていないところがあり、今これ以上言ったらあとあと大変そうなので、ちょっと控えめになっています。

強いてこれは明確なのではということを言えば、奈良さんにおいて「子ども」「未成年」というモチーフがきわめて重要な意味を持っている、ということです。見ればわかることですね。奈良さんにおける「子供」「未成年」について、松井みどりさんは哲学者であるジュリア・クリステヴァの論を受けつつこのように述べています。「奈良の想像世界での「子供」は、抑圧された記憶の媒体であると同時に、社会通念や行動規範を代表する「大人」に対して、そうした効率のよい体系から逸脱し、それをつき破る感覚の力を体現する存在だ」、と。それが、クリステヴァが述べるところの、「大人と子供、男性と女性、現実と幻想の間を揺れ動くことを本質とする」「未成年」と合致するわけですね(註2)。大人という規範を、未成年というその外側にある脱規範的なものを通して撹乱すること。

もちろんこうした議論の組み立て方には大きな問題点があると思います。まずもって、全肯定ペンギンさんが先の展評で僕に送ってくれた言葉を借りれば、「立派で成熟した存在としての成年という概念がまず前提された上で未成年のポテンシャルが問題とされるとき、未成年はこの「成年/未成年」という非対称な関係性の枠の外には出られなくなる」。「大人」に対して外的なものとして「未成年」を設定している以上、たとえその撹乱可能性を主張したとしても、その撹乱が「大人」の文化の外側で生じるものでしかないことは前提されているから、「大人」の文化それ自体の変動可能性にはつながらない、ということだと思います。

ともあれ、性差を筆頭に、文化の只中で規範として押し付けられている。ありようとそこからの逸脱という問題や、そうした問題に取りつかれていたと思われる作家たちが、しばしば子どもという主題を持ちだしている点には強い興味があり、上で述べたような批判を強く意識しつつ今後も問題にし続けていきたいな、と思います。しばらくのライフワークとして、ですね。そもそも、規範があってそれに対する逸脱や脱規範的な身体があって…みたいな構図それ自体が、上の批判の対象になりうるものなのではないか、っていう予感もあって、いろいろ考えねばな、と思うのですが。

とりあえずは、子どもの脱規範性という主題に関係で、かつ僕にとって魅力的であるような何人かの作家についてことあるごとに各論を書いていって、最終的に連作みたいな感じしたい、という構想が今のところあります。その一人が奈良さんなんですけど、ほかに考えているのは相米慎二とか、あとは先にも少し触れた小山田さんとかですね。相米はまだ観れていない作品があり、小山田さんについては全然どう論じるべきか見当がついていないしで、本当に入口なんですけどね。

あとは、先に述べたような感じでパフォーマンスをやっている中で演技についての関心を高めてもいて。でも、自分とはぜんぜん異なる身体を持つだれかに少しでも接近するために、自分の身体に負荷をかけて組み替えるようにしていく、みたいなあの経験はかなり好きで、今後もたくさんやっていきたいな、と思っています。全然わからないしいろいろ勉強しなくちゃな、って感じなんですけどね。その一パターンとして最近は声マネにはまっています。YouTubeとかにたくさんあるやつです。現に今日の対談も、声優の宮野真守さんの声マネでやってましたしね。

― BUGの活動について何かあれば

大企業であるリクルートの資本が、企業としての論理とどれくらい一致するのか分からない現代アートの場へと流し込まれている、ってところがすごく重要なんじゃないかな、と思います。
もちろんこういう場が、お金出してもらっているからってことで強く出られずにリクルートの論理に絡めとられてしまう、あるいはリクルートの広告みたいになっちゃう、って危険はとてもあると思うんですけど。そんな中である種のパラサイトみたいな感じで、お金は出してもらいつつ自律性を維持するぞ、みたいなスタンスで居続けられたらとてもいいんじゃないかな、って。リクルートをすごく批判するような展示も許容しちゃえる場であってほしいな、みたいな。

註1
ジャック・ランシエール『解放された観客』梶田裕訳、法政大学出版局、2013年、18頁。
註2
松井みどり「外側からのまなざし:奈良美智の絵画における「周縁」」、奈良美智『I DON’T MIND,IF YOU FORGET ME』、淡文社、2001年、140頁。

左:水野幸司さん 右:石田裕己さん


ありがとうございました!
石田さんの今後の活躍がとても楽しみです。一緒にインタビューを行った、水野幸司さんのインタビュー記事もぜひご覧ください。

【インタビュー】水野幸司さん/ 批評執筆と活動について