生きる意味も快楽主義が仕事至上もすべて欺瞞、中庸であり自身に帰結すべき問題

生きると言うことを考えるときに必ず意味に帰結することが多い。

だけどこれは大体において失敗する。なぜなら生きることに意味なんてないからね。

そこに意味を定義してしまうと、事故死や、殺人による意義がどうしても立証しづらい。

次に快楽主義も難しい。

人間と言うのは慣れてしまう生き物であるから、同じ快楽では同じだけの快感を得る事はできない。どうしてもエスカレートしていく。その先に待っているのは避けて通れない破滅だけだ。

そして先程のとのリンクして、何かを積み重ねないことにも人間は我慢できない生き物だ。

仕事主義がここでお出ましだ。

人の為世の為、仕事に生きればいいじゃないかと言う話もある。

ご高説ごもっとも。しかし、大体においてその背景にあるのは、社会的な地位と、資本の獲得と言う至極当たり前の欲求だったりする。

現実として、極まった老人などは、老人ホームでお金や地位や仕事などで、上だ下などなどとくだらないことにこだわってなどいない。

ただ話していて楽しい相手、ゲーム、趣味に没頭している。究極的には、人はそういうものなのかと言う証明に他ならない。

哲学的に生きるのも違う、刹那に生きるのも違う、仕事に生きるのも違う。

大体仕事ってなんだよと思った。

個人的には仕事とは、生きるための手段だ。それはアドラー心理学と合致していて、ぶれる事は無い。

逆に言えばこれは、それ以上の意味をつけることの危うさも表している。

仕事に終始して、プライベートをないがしろにする人間は、どこに行き着くのか、それは…すまない申し訳ないがそれは本当のところは興味がない。

私にはその生き方はできないからだ。

ここで仏教で言う中庸の道と言う考え方が浮かぶ。

何事も極端に走るのは良くないと言う至極真っ当と言えばその通り。

みんな、怖いから、みんなそうしてるから、仕方ないから、自分がやりたいことを我慢して、言いたいことも言わないで、人に認められるために、その人生を費やして、世の中に絶望しているような気もする。

もし間違っていたら社会不適合者の戯言だと許して欲しい。

結論も何もないが、だから勇気を持って、自分を信じて、自分が心地良い生き方を模索するべきだと私は考える。

それがバランスが取れていなかったり、社会的地位がなかったり、今お金が乏しくても、そんな事は気にしなくていいと思う。

前向きに自分を信じて精一杯生きていれば、それはそういう結果を引き寄せて、人を引きつけて、きっといつか自分が望む結果を得ることができるから。

できなかったら?

そんなふうに考えているから、行動できないし、引き寄せられない。

私は精一杯勇気を持って、今日も自分を精一杯接待して、良い気分を保って、前に向かって歩いて行って、幸せで楽しい人生を謳歌したいと思う。

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