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bay4kさん 〜脳出血により声を失いかけたラッパー〜

文:舘野 雄貴

bay4k氏は、地元・川崎の仲間たちと結成したラッパーグループ「SCARS」とHIPHOPユニット「練マザファッカー」のMCとして活動してきた。

地上波放送にも出演しながら、ジャパニーズヒップホップを牽引してきたが・・・

2019年4月2日に脳出血で倒れ、後遺症として右片麻痺と構音障害が残存。

利き手側の麻痺により運動機能障害を患い、ラッパーの生命線である「声」が出しづらい障がいを残すこととなったbay4k氏の半生と「これから」に迫る。



アイデンティティ


Q1.まず、bay4kさんのアイデンティティについて教えていただけますか?

A:生まれは神奈川県川崎市なんですけど、国籍は韓国です。自分は、在日韓国人の3世になります。

Q2.ずっと日本に住まわれていても、日本籍に帰化しない理由はありますか?

A:国籍がどこであろうと、自分が在日韓国人である事実には変わりないし、パスポートが緑であろうと何色であろうと自分は自分なので、国籍にこだわりはないからです。

Q3.ご自身のアイデンティティで苦悩したことはありますか?

A:小学生のときに、心ない人たちから「自分の国に帰れ!」「チョーセン人!!」などと、罵られたこともありましたね。でも、自分は気が強い方だったので反撃して、喧嘩になってましたね。

音楽に込める思い


Q4.HIPHOPのルーツは、アフリカ系アメリカ人の黒人がひどい人種差別を受けたことへの反発の意を音楽に込めたと聞きます。そうしたHIPHOP文化とbay4kさんの人生観や音楽性が重なるものもあったのですか?

A:在日韓国人への差別撤廃を訴えるとまで大袈裟なことを含めたわけではありませんが、HIPHOPのもつ音楽性の中には、ラッパーのすべてがにじみ出ます。

なので、後付けにはなりますが、在日というアイデンティティや脳出血後遺症による障害などのマイナスに捉えられそうなこともすべて楽曲に込め、自身の音楽性に活かされています。

Q5.いつ頃からラッパーになろうと思われたのですか?

A:別になろうとしてなった訳ではないんですよね。高校卒業後は、コンピューターの専門学校に通ったんですけど、授業内容をサッパリ理解できないまま休学し、そのまま辞めてしまいました。

その後も音楽仲間と好きな歌を好きなように歌い、リリック(歌詞)を書いたりしていました。そうやって好きなことを好きなようにやっていたら、それが自分たちのHIPHOPになっていったんです。

Q6.好きなことを追い求めた形=ラッパーだったのですね?

A:好きなことしかしない主義なので大好きなラップを続けてきたら、それが形となっていったんです。

そんな中、ダウンタウンのテレビ番組「リンカーン」に練マザファッカーのメンバーとして出演したことをきっかけに自分たちの歌が世の中に知られるようになっていきました。

それに、今の世の中は、インタネットを使用すれば誰でも簡単に音楽を配信できるので、慣れないながらにネットで自分の歌を配信し始めたんです。
そのように音楽を通していろんなことに挑戦していた矢先に脳出血になりました。

生死を彷徨う中で、大切な人たちのことを思う


Q7.脳出血を発症したときのことは覚えていますか?

A:はい。友人と話しているうちに呂律が回らなくなり、「お前、なにかおかしいぞ!」って言われているうちに右の手足が動かなくなって仰向けに倒れ込みました。

正直死ぬのかと覚悟しかけました。

Q8.脳血管疾患は日本人の死因でも常に上位に入ってますものね。ギリギリのところで意識を保たれていたとのことですが、そのときになにが頭に浮かびましたか?

A:家族と友人の顔が浮かびました。死んじまったら、もう会えないのかよ・・・って思った次の瞬間に死んでたまるか!!という感情が湧き上がりました。

救急車で運ばれるときには意識を失ってしまい、なにも覚えていないです。

目が覚めたのは、大和市立病院のICUでした。窓もない病室だったので、昼か夜かも分からず、体中になにかの線を付けられているのが見えました。心電図の波形音だけが聞こえてきましたが、自分がどうなっているか理解できずにいました。

体が自由に動かずにもがいていると、

「なぜ自分がこんな目に遭うんだ、これからどうやって家族を食わしていったらいいんだ。」という思いがよぎりました。

そして、「もうラップできないのかな?」という考えが過ぎると絶望的な気持ちになりました。

いろんな修羅場は経験してきたつもりでしたが、体験したことのない恐怖と計り知れない不安に襲われました。この上なく深い闇の中というカンジでしたね。

Q9.屈強で前向きなbay4kさんといえども病に倒れて先の見えない状態になると、さすがに辛かったでしょうね。そのような状況からどのようにして回復することができたのですか?

A:医療従事者の人たちが献身的に関わってくれたことが大きいですね。イヤな看護師もいましたが・・・。あとは、家族や仲間たちが面会に来て励ましてくれたおかげですね。


懸命なリハビリで復活を目指す


Q10.やはり弱ったときは、人の優しさがより沁みますよね。その後の回復過程について教えていただけますか?

A:大和市立病院には1か月半入院しました。ほとんど動かなかった手足も入院期間中に徐々に動くようになってきました。

 その後、更なるリハビリをするために南町田病院へ転院しました。2ヶ月間の入院だったんですけど、回復期の病院なので、ここで頑張れなければ家に帰ることができません。なので、めちゃくちゃリハビリを頑張りました。

Q11.具体的なリハビリ内容を教えていただけますか?

A:リハビリは毎日ありました。理学療法士からは片麻痺により動きづらかった関節をほぐしてもらいながら動作や歩行の訓練を行いました。

作業療法士には、利き手である右手に麻痺が出てしまったので利き手の変更の訓練を指導してもらいました。

Q12.ラップの生命線にもなる「声の」のリハビリもされたんですよね?

A:はい。言語聴覚士と発声練習や嚥下訓練を行いました。

運動や作業のリハビリも一生懸命取り組みましたが、「もう一度必ずラップを歌う。」という一心で発語のトレーニングもしました。

Q13.リハビリは相当大変だったかと思うのですが、いかがでしたか?

A:倒れた直後はどうなっちまうんだろうという恐怖に支配されていましたが、リハビリを続けていく中でだんだん動くようになる感覚を得て、絶望感も薄らいでいきました。

Q14.現在、元の状態が100だとすると、どれくらいまで回復したと思われますか?

A:利き手利き足の動きづらさはありますが、一人で遠方まで歩けていますので身体機能は半分以上まで元に戻ってきたかと思います。

声に関しては、80といったところですかね・・・ただ「つらら」とか「ささみ」とか同じ音が続く言葉は発語しづらいです。

これからについて


Q15.現在も後遺症が残存しているとのことですが、今後はどのように活動されていきたいですか?

A:今までと同じように自分にしか書けない歌詞を綴り、自分だけのラップを歌い続けていきます。

健常のときのように歌えなくても、今の声には障害をも乗り越えた力強さが宿っています。技術や表現スタイルがどうこうといった物差しや尺度では測れない音楽性を追求していきますよ。

在日韓国人三世・脳出血・麻痺・構音障害・・・

マイノリティと呼ばれようと呂律が回らなくてヘタクソなラップと言われようと、自分にとってはそれらすべてを含めてHIPHOPなので。

憂いを帯びたブルースのようなラップを歌い続けますよ。


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