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【映画レビュー】人は如何にして”怪物”を脱するか【映画・怪物】

はじめに

 私が今回「映画・怪物」の存在を知ったのは、確かなんの気無しに立ち寄った映画館で、スクリーンに映し出されていた予告でした。

 「怪物だれーだ」

 幼く中性的な声色でつぶやかれるその言葉と、坂本龍一氏の美しくも不協和的なピアノの旋律、全てが不安を煽る予告というような印象を抱かされ、いわゆる「ホラー好き」な私は一瞬にしてそれに釘付けにされたことを覚えています。

 現在2023年6月2日より放映している映画「怪物」を、私が見に行ったのは自分の中で「驚き」がありました。久しく映画館で映画を見ようと思わなかった私が、いそいそと劇場に足を向けたのは、色々な偶然が重なったからではありますが、それでもこの映画をみた時の私の衝撃は、長らく日本映画に対して感じていなかった「なにか」がありました。

 それを私自身、現在理解することが出来ないでいます。今回は映画のレビューと銘打って、本作「怪物」を振り返り、私自身が培ってきた物語、創作の観点から、六章に分けて一つ一つ記述させていただきます。

 今回は前半の三章を「ネタバレなし」で行い、後半は物語の核心に踏み込んで考える「ネタバレ注意」として記述させていただき、特に後半の部分は実際に映画を見ていないとわからないような内容にするつもりですので、これを見て少しでも興味が湧いた方は是非、劇場に足を運んでみてください。

 それでは、作品そのものの紹介を噛ませて、早速記述させていただきます。

あらすじ

大きな湖のある郊外の町。
息子を愛するシングルマザー、
生徒思いの学校教師、そして無邪気な子供たち。
それは、よくある子供同士のケンカに見えた。
しかし、彼らの食い違う主張は次第に社会やメディアを巻き込み、
大事になっていく。
そしてある嵐の朝、子供たちは忽然と姿を消した―。

引用:「怪物」公式HP・Introduction
引用:「怪物」公式HP

【ネタバレなし】第一章:写実的な「現代」の表現

1.舞台となるのは「ありふれた日常」

 本作の舞台は広く「現代」であると言えるでしょう。都会ではないけれど、それでも田舎と呼ぶには発展した、恐らく多くの日本の「とある街」を切り取ったような場面が次々に描かれていきます。

 この映画は予告を見た方はわかると思いますが、極めて不穏な様相で描かれています。一つの学校を舞台に、とある少年の異常性とそれを心配するシングルマザー、問題の渦中に引きずり込まれた担当教員、学校でのトラブルから必死に逃れる学校関係者、劇的である一方で、見ている人たちはどこか「現代的だな」と思うことでしょう。

 いじめ、学校でのトラブル、それらの問題が顕在化したのはまさしく「現代」といえます。
 所謂「昭和世代」の人たちは、学校では絶対的な規律が存在していてそれに従うのが当然でした。その親世代も勿論同じことを思っていて、多少の理不尽や暴力が当然であるとしていた過去の時代。それが良い子とか悪いことはここで判断するものではないのですが、少なくとも「現代的」ではありません。

 現代の教育現場では「サービス業」的であり、教育現場での体罰はありえないもので、なにかトラブルが起こると保護者が飛んでくる。そんな教育現場では「シングルマザーの母親は特に面倒」という言われ方をします。

 それは劇中で表現されている教員たちの態度を見れば一目瞭然、生徒たちへの指導的な態度とは裏腹に、媚びへつらうような教員たちや、そんな機械的な対応に激怒するシングルマザー。

 これらの構図はおよそ劇中において30分も経たないうちに表現されます。
 それだけではなく、本作では所謂「劇的な表現」というものが極力抑えめになっています。キャラクターの振る舞いはどこからどう見ても「写実的」であり、まるでどこかの家族の日常を切り取ったような気すらしてきます。

 本作における主人公は「麦野家・湊」という小学5年生の少年で、彼を取り巻く環境は「健気なシングルマザーの母親・早織と暮らす日常」です。彼が物語最序盤で見せる異常性は、そんな日常との乖離から生じて「怒り」すら出てくるかもしれません。
 どうしてこの子は、こんなにも温かな家庭にいるのに、そんな事をするのか。タイトルの「怪物」や、予告の不穏さから「湊」に対してそんな事を抱かせます。

 もし仮にそのような気持ちが生じているのであれば、この作品の仕組んだ「写実性あふれる手法」にすっかり引き入れられているのかもしれません。徹底的にキャラクターや人間関係をリアルな現代社会に寄せることで、私たちはどこか現実の世界を想起してしまいます。
 だからこそ、物語をスタートしてすぐに我々の気持ちを支配しているのは、「異常な現実性と、それに対して反抗する湊への意識」です。

 現実社会とリンクする劇場の内容、日常的ながらどこか不気味さを抱かせる湊の行動、それらは全て「一貫したとある出来事」に繋がってくるとは、この時に受け手はなかなか考えることが難しいかもしれません。

 それは描写されている事が「写実的」であるからです。

【ネタバレなし】第二章:偏った視線から煽る「猜疑心」

1.静かな描写とタイトルの対比

 物語の序盤、「麦野家・早織」の視点で物語が進行していきます。

 母・早織は、夫を亡くして女手一つで湊を育てていながら、少しお調子者な様子を出しつつも、楽しそうな湊との関係性はまさに「普通の親子」を思わせます。まるで自宅から出て見渡せば見つかりそうな子育ての日常、映画でありながらそんな事を思わせるのはまさに「写実性」の為せる技です。

 ですが同時に、母・早織は湊の不自然な行動をきっかけにして「学校でなにかあったのでは?」と考えるようになります。湊から返ってきた答えは「先生に暴力を振るわれた」というものであり、子どもを持つ母親であればその言葉がどれくらい重く、衝撃的なものかはよく分かるでしょう。

 母・早織は、湊に対して「結婚をして普通に生活をしてくれれば良い」という普遍的な願いを持っています。それ以上は何も望まないから、健やかに人並みの幸せがあればそれで良い、とあくまでも等身大的な考え方を持っています。

 真摯に、決して多くは望まないシングルマザーの視点で物語が進む都合、彼女が持っている湊への感情はやや過剰なほどに伝わってくることでしょう。

 そこに嘘偽りのない「親としての愛情」があり、学校での教員の態度がそれを受け手にも誤解させます。「学校では確実に問題があったんだ」という気持ちの傍ら、我々は湊自身の異常性も見ています。
 湊は突然いなくなり、「怪物だーれだ」という言葉を楽しそうに叫び、かと思えば連れ戻しに来た母親の目前で走行中の車から外に飛び出しもしました。

 この時点で、受け手は「猜疑心」を抱きます。当然それは、「母親・早織以外の全ての登場人物」に対してです。
 なにせ私たちはこの時点で「早織以外の視点」が存在せず、断片的な情報のみから「想像している」状態です。更にその断片的な情報は「異常行動を繰り返す湊」や「無表情に言葉を繰り返す機械的な学校責任者」、「愛想なく具体的な言及もしない担当教員」などを連続に見せられればそれも当然でしょう。

 勿論母親・早織もやりすぎな描写があります。それでも、その激情的な態度は、「学校での湊がわからないこと」や「教員の態度」から納得させられるものがあります。

 母親・早織以外への「猜疑心」は、登場人物までならず、「脚本」までにも向けられるかもしれません。

 私たちはこの作品「怪物」の予告を確実に見ている想定をされているでしょう。作品全体に漂う現実的でありながら、どこか湿っぽい空気感は、サイコスリラーの雰囲気をしとしとと帯びています。
 物語全体をまとっている不気味さと、タイトル「怪物」から来る不穏さ、それによる全く別の猜疑が受け手の中に生じているかもしれません。

 視点に明らかな偏りを入れることで、「キャラクターに感情移入させる事」は当然ながら、それと同時にメタ的な視点から「この先の物語」を想像させます。

 湊はなぜこんな異常行動をするのか?
 学校の態度はなんなのか?
 「怪物」とはなんなのか?

 色々な要素に対して、我々は見ている段階から色々な事を考え、弄ります。当然この段階では、我々に物語の全貌を知ることは出来ません。その一方で、「この先はきっとこんな展開になるだろう」という一定の想定をすることで、此処から先の物語への印象が変わるかもしれません。

【ネタバレなし】第三章:「サイコスリラー」から「等身大の群像劇」へ

1.キャラクターが描く微かな「歪み」

 ところで、本作のジャンルを聞かれた時に私の最初の印象は「サイコスリラー」でした。
 予告の時点で非常に不穏で不気味な様相を呈しており、さながら「エスター」や「ケース39」のような、子どもが題材となる人間的な恐怖を描く作品であり、現にこの作品の前半部分は意図的にそのような事を想起させるように作られているように思えます。

 日常を思わせる巨大な環境音と薄闇に映える家族の様相、ありきたりな日常風景を見ているはずなのに、受け手は明らかにそこに不穏さを感じ取ることでしょう。

 それは前述の通り、作品への印象が大きい意味合いを持っているのは言うまでもないかもしれませんが、それ以上にこの作品が持っている異質な空気感にあると私は感じました。

 日常の中でもあえて明るい場所を切り取らず、かといってどす黒いほどの闇を見ているわけではない。夕闇時のような雰囲気が常に漂う中で、私たちはこの作品の印象をより確固たるものにしていきます。

 しかし、この作品がそこから明確に変化する瞬間があります。それが、キャラクターの視点変化です。
 この作品は最初、母親・早織の視点で物語が進むのですが、湊が嵐の日に消えるところを境に視点が変わり、「学校では何があったのか?」という部分を映すようになります。
 私はここの視点変化がこの作品のターニングポイントであるように思えてなりません。このタイミングで、私たちが見ているものが「サイコスリラー」から「群像劇」に変わるのです。

 受け手はそれまで母親・早織の視点からしか物事を見ることが出来ませんでした。そこには「猜疑」が生まれ、今後の「展開」を予想する動きが生じますが、同時に「学校側」からの物語も考えるはずです。
 本作ではそこの部分すらも写実的でリアルに描写しています。視点移行時に担当の教員のプライベートから物語が再開します。それは物語冒頭まで巻き戻された上で、時系列を改めて「担当教員から」辿ることになります。

 ここでキャラクターの描写をおろそかにせず、更に具体性を持ったキャラクターとして仕上げてきたのが、本作の群像劇たらしめるものとなります。キャラクターが持っているそれぞれの考え方を丁寧に描くからこそに生じる「人間模様」を、ここで受け手に対して提示するのです。

 ここで一つのテーマになってくるのは、本作に登場する人物の「普遍性」です。

 この物語に登場する人物は、決して映画的な表現も、物語としての作品的な都合によって動くわけでもありません。あくまでも、「湖のある街」で「よくある小学校の人物たち」が「当たり前の日常」を過ごすのです。そこに物語を発展させるような、所謂「画的な表現」はなく、徹底的な人間味と情緒的かつどこか異質な表現がなされた「日常」のみです。

 この作品の中で、劇中に目を釘付けにするのは写実的ながらもどこか異質なキャラクターたちであることは間違いありません。しかしそれらは「日常」や「普遍性」によって構成されており、だからこその等身大的な印象すら受けることになります。

 日常の中で、私たちは色々な人に遭遇します。中には「この人は何を考えているのだろう」と思うことが多々ありますが、決してその人の視線に立つことはありません。だからこそ、異質さを秘めた人たちを行きずりのまま見送ることが出来るのです。

 けれども本作ではそこに丁寧な時間と陰鬱ながら美しさすら覚える日常の中でそれを提示します。まるで等身大の人間模様を見ているような感覚すらも感じさせられます。
 怪物という言葉から広がるサイコスリラーの印象から、少しずつ本作が「等身大の群像劇」へと変わっていく瞬間を感じるに至るかもしれません。

【ネタバレ注意】第四章:「怪物」とはなにか?

 此処から先は物語の重大な核心に迫るのと同時に、レビューの内容そのものが「物語を見ていること前提」になります。ご覧いただくのは、必ず本作を見てからよろしくお願いします。



1.「怪物」は誰か?

 本作における「怪物」とは一体何なのでしょうか? 物語を最後まで見た人は「怪物だーれだ」という言葉のインパクトよりも、ラストシーンの幻想的かつ含みのある内容と、「湊と依里はどうなったのか?」という疑問符を抱いていることでしょう。

 ラストシーンの考察は第六章に譲るとして、本作のなかで一貫して登場する「怪物」に付いて考えていきましょう。

 結論から言うとこの作品における「怪物」の正体は、「人間によって作り出される社会とそれを演じる人間たちそのもの」であると筆者は考えました。
 本作において度々語られる「怪物」という言葉は非常に抽象的ながら、イメージとして「恐ろしい個人である」と考えてしまうかもしれませんが、振り返って考えてみるとこの作品における怪物と言える存在は「キャラクター全てに存在する」といえます。
 恐らくこの作品における「怪物を宿さない人間」は存在しないのかもしれません。人間の社会に組み込まれているという前提がある以上、その存在について模索する立場にある湊と依里ですら、その怪物が宿ってしまっていると考えることも出来ます

 シングルマザーにして一人息子の湊に愛情を注ぐ母親・早織、健気に生徒のことを思い遣る保利教諭、依里の事を怪物と罵り虐待を繰り返す父親、孫を失ったと言いながら子どもに対してどこか毒を持つ校長、あらゆる人間がこの作品に於いて「人間社会という怪物の要素を持つ」ように描かれています。

 母親・早織には「過剰な愛情と未来への思い」が、保利教諭には「生徒に対する気持ちと軋轢への対処」が、虐待を繰り返す父親には「自身の子供に対しての押し付け」が、毒を持つ校長は「責任者としての立場」が、それぞれのキャラクターを怪物へと導くことになります。
 そしてこれらの強い感情が、「人を傷つけうる怪物」へと向かわせることになりました。

2.「普遍性」と「見えない自分」が怪物の輪郭

 言い換えれば怪物は、「人間が持っている見過ごされている攻撃性・悪意」というべきものかもしれません。
 あくまでも社会の中で作り出される色々な役割は、本来的に人間が持っているそれらの攻撃性を見せないようにしていると考えることも出来ます。

 例えば母親・早織は、シングルマザーで湊のことを愛しています。これだけ見ればそこに攻撃性や悪意があるようには見えないかもしれませんが、劇中において彼女は、学校での出来事や依里の存在を知らなかったとはいえ、担当教諭である保利のことを激しく罵倒します。
 この罵倒は物語最初で噂話をする伏線から繋がっているのですが、結果的にこれは「人格攻撃」になっています。そこには「小学校教諭がガールズバーに通っている」という社会的に見て迎合されない事を、プライベートにまで突っ込んで攻撃しているものになってしまうので、盤外攻撃といっても然るべきです。

 一方で攻撃をされた保利教諭は、母親・早織に対して「湊くんは星川依里という生徒をいじめている」という、確定していない情報を吐露していしまいます。これにも明らかな攻撃性が描写されています。勿論この物語を最後まで見た人は、これが事実とは全く異なるものであることまでわかるのですが、ここでの保利教諭は内在してきた想いを、母親・早織の攻撃に対して、攻撃性をもって応えてしまいます。

 劇中においてはキャラクターの細かな描写から、軋轢にいたり「攻撃」や「悪意」として表現されています。本当に些細なことかもしれませんが、彼らが内在している「怪物的な要素」が「明らかな攻撃」に至っていると考えることが出来る描写の一つです。

 ここから、この物語のキャラクター全てが持っている「怪物」には、①普遍性、②見えない自分、の2つの要素があると考えることが出来ます。

 「普遍性」は、キャラクターそれぞれが持っている特殊性に左右されず、どんな人間であっても「怪物的なところを持っている」ということです。この作品において、「怪物」の要素を持たないキャラクターは、狭い意味では依里のみでしょう(ここは後述します)。主人公的な立ち位置の湊ですら、その怪物としての側面を描写されています。

 湊は自身が他の子どもたちと明らかに違うことを序盤から自覚しています。その際たる描写が、最終盤での過去の回想です。湊は依里との隠れ家にやってきて、母親に連れ戻されるところで、「僕は(普通に家庭を持つことが)出来ないかもしれない」と言おうとしていましたが、その言葉は母親・早織に届くことはありませんでした。
 恐らくここは、死んだ父親との約束という非常に重たい意味合いがあることを湊自身も知っていたからでしょう。それだけではなく親への想いも垣間見せる非常にリアリティのある描写です。

 ですがここの描写は、「湊が自分のことを理解している」と捉える事ができる部分でもあります。
 更に湊の視点では、学校での依里やその周囲の人間関係について描写されていました。学校では湊は他の生徒と打ち解けている一方で、依里は「ちび」や「女子と遊んでいる」と言われて古典的なジェンダーロールにそぐわない依里はいじめの対象にされていました。
 そんな湊は、「友達だけれど学校では話さないようにしよう」と依里に告げます。この時依里は「いいよ」と答えているのですが、この湊の言動は私が前述した「怪物」の要素を強く持っていると言えます。

 湊はこの作品において「怪物」という要素と徹底的に戦っている唯一の人物であると言えます。自分の中にある「異質な部分」を怪物として考えるのであれば、彼ほど果敢に、積極的に怪物と向き合っているキャラクターはいないでしょう。
 湊は学校では確かにその怪物的な側面を見せながらも、それ以外の時間では依里と確固たる関係性を作り、二人だけの世界を作っていきます。そんな中では今まで湊を苦しめていた「世間とは違う」ということで押し付けられてきた怪物が存在していたはずですが、依里へと抱く気持ちも自覚していきます。

 最後の嵐の日に依里とともに秘密基地へと赴いたのは、その怪物への最後の抵抗であったと考えることが出来ます。こうして湊は徹底的に己の怪物と戦っていました。
 本作において怪物に晒される立場にある湊ですら、怪物になりかねない「普遍性」があるといえるでしょう。

 同時にこの怪物の要素は、「自分では見ることが出来ない」という要素もあります。
 この作品の全てのキャラクターは、「自分のことを怪物である」とは誰も思っていません。己の怪物と、知らずのうちに戦っていたであろう湊ですら、自分の中にある異質な部分と、社会的に要求される役割との間に揺れていました。しかしそれはあくまでも、社会的な役割と自身の異質さを天秤にかけることで成立したことです。
 他のキャラクター達は、本質的に作中において「自分の中の怪物」を自覚している人物は1人もいません。それこそが、自身の怪物を客観視出来ないことに繋がります。

 またこれは作中において明確な比喩表現があります。それが代表的な言葉である「怪物だーれだ」というセリフが使われる、「正体当てゲーム」にあります。
 これは湊の視点で、依里とともに「動物のカードを手にとってお互いに質問をしあって、自分のカードを当てる」というゲームをしていました。これは手作りによるカードであり、湊と依里が消えた日には「怪物」という手作りカードがありました。

 これは「怪物は自分でそれを知ることが出来ない」という比喩表現であると私は解釈しました。劇中において「怪物」ということが明記されているのはここだけであり、この作品における暗喩的要素であるのではないでしょうか。

 この「正体当てゲーム」は、カタツムリやブタを始めとする動物が登場しています。それを湊や依里をしているということは、「誰でも何にでもなれる」ということでもあり、どこかでそれを湊と依里は分かっていたのかもしれません。

3.「怪物を探す」という役割に苛まれる感覚

 この作品における色々な視点から「怪物」を考えてきたわけですが、実はそれらの怪物の要素は、別に物語のキャラクターだけではありません。
 当然ながら、「怪物」の要素は私たち受け手ですら、人間の持っている本質的な怪物から逃れることは出来ません。

 加えて本作では、宣伝段階から表現されている「怪物だーれだ」というセリフから、受け手は物語上のキャラクターとはまた別の要素の「怪物」が生じます。

 物語序盤、我々は描写されるキャラクターを見て物語やキャラクターに「懐疑」を抱いたはずです。それは「怪物を探せばいい」と勝手に彼らの言葉を解釈して、そもそも概念的な存在である「怪物」を「怪物のようなキャラクターがいる」と思うことでしょう。

 怪物のようなキャラクターとはどんなものでしょうか?
 サイコパスのように人のことを弄ぶ人間でしょうか? それとも自己保身に走り、機械的な対応を繰り返す人間でしょうか? はたまた過剰な愛から他人を攻撃する人間でしょうか?

 本作には、そのような要素を持つ人間はいるかも知れませんが、一方でそれらを突きつけたような人間は存在しません。つまり物語に、受け手が期待するようなキャラクターは存在していないにも関わらず、我々は先入観からそれを探していました。

 この作品のなかで登場する怪物を端的に表現するのなら「先入観や偏見」というものもあるでしょう。
 本作はカンヌ国際映画祭にてクィア・パルム賞を受賞しています。この賞は所謂「LGBTやクィア」などを扱った映画に与えられる栄誉ある賞だそうです。故に本作が本質的に描き出そうとしたものは、それらを認めることのない社会そのものの「人間が人間に持っている先入観から生じるもの」であるのかもしれません。

 劇中において「先入観や偏見」などの怪物が犇めいているのですが、一方でこれを見る受け手は「存在しない怪物がいるだろう」という先入観が存在しています。
 受け手が持っている気持ちが如何に「周りに踊らされているのか」がよく分かるものになっています。

 そこから遡って考えると、私たちは「自分が本当に思っていること」というものは少ないのかもしれません。人からの意見や空気感、それら全てから独立して生きるということの難しさは、ここにあるのでしょうか。

4.依里が探す「怪物」とは

 私が今まで語ってきた「怪物」という言葉は概ね、ほとんどのキャラクターに適応されており、受け手の存在すら想定した要素でした。

 しかしキャラクターの中で、ただ一人その意味を模索する人物がいます。それがもう一人の主人公とも言える依里がその存在に当たります。

 本作で受け手に「怪物を探す」ように働きかけるあの特徴的なセリフは、依里の言葉です。そして同時に本作で「怪物」と呼称されたのは依里のみであり、彼が孤独の中で「怪物だーれだ」と言いそれを探し続けるような印象を抱かせるときすらあります。

 依里はどうして「怪物だーれだ」と言いながら、ありもしない怪物を探すのでしょうか? その理由は「依里自身が怪物と言われたから」だと筆者は考えています。

 依里はどこか中性的であり、湊に対して好意的なところが見られます。小学校の子どもたちからも、その印象はどこか異質なものがあったのかもしれません。それらの要素は当然ながら父親も感じ取っており、依里の父は「怪物」として表現する場面があります。恐らくそれは、日常的に何度もそうやって依里に言っていたのでしょう。

 まだ人の社会や概念のことを知らない依里はそれをどのように解釈するでしょうか。同時に依里は父親から「豚の脳が入っているから人間じゃない」とすら吐き捨てています。そんな依里は、「自分=怪物」であると考えることでしょう。
 依里にとって「怪物」は果たしてマイナスな言葉だったのでしょうか。むしろ、自身が怪物として言われ、それについて徹底的に否定されていく中で、依里は「自分以外の怪物とされている人間はいないのか?」と考えていたのかもしれません。

 依里は父親が表現した「怪物」という言葉をよく理解していなかったでしょうが、ニュアンスは伝わっていたはずです。「他の人間とは違う、人間ですらない」そんな意味合いだったとして、依里はそれを覆すことを自ら拒みました。
 物語の終盤にて、「怪物から人間に戻った」と湊に伝えますが、即座にそれを否定しています。依里は頭の良い子で、この齢にして「ビッグクランチ」や「品種改良」などの言葉を使っており、知的な印象をうけます。一方で識字障害を彷彿とさせる表現もされており、この識字障害の要素が「豚の脳を移植されている」という部分に繋がっていると考えています。

 依里はその気になれば、父親の望むような子どもを演じる選択もできたはずです。それをしなかったのは、湊の存在があったのかもしれません。
 依里は湊に自分自身の要素、「(依里の解釈する)怪物」を見たのでしょう。だからこそ、学校ですら自分に話しかけるなとすら言った湊のことを受け入れ、二人だけの世界を作り出すに至ったのかもしれません。
 勿論これは筆者の解釈であり、「いじめのような状況であれば友愛的にそれを離すことは出来なかった」と考えることも出来るでしょう。けれども依里には確実に、湊に対しての愛があったと示唆できます。依里は二人っきりの世界で、湊のことを抱きしめたり、「女の子の事を好きになった」と父親に言わせられていたりと、明らかに「男の子が好きな男の子」のような表現がされています。

 湊もまた、同じ事を自覚している節があります。母親の「家族を作る」という言葉に反応するなどがこれに当たり、けれども湊はそれを極端な否定は嵐の日に抜け出すまで出来ませんでした。
 湊は紛れもなく、「依里の考える怪物」だったのかもしれません。

【ネタバレ注意】第五章:一体誰が悪かったのか?

1.本作に「悪人」はいるのか

 この物語における怪物の事を考えてきた上で、それでは「この物語の誰が悪かったのか?」も同時に考えていきましょう。
 そもそもこの物語において、何が悪かったのかを考えると、それ自体が難題になります。この物語自体が、「単純な二元で語られるものではない」からです。

 この物語の発端は、湊の嘘からでした。「先生に“豚の脳が入っている”と暴言を言われ叩かれた」それを母親・早織が聞き、すぐに学校に相談をしています。そこから学校とのすれ違いや、それぞれが自分の立場を考えることで、物語はこじれていくことになります。
 しかし湊の冗談は、依里のことを助けるためのものでもありました。それに気が付かなかった担任の保利教諭も問題があったかもしれませんが、それは「悪意がある」というわけではありません。

 では、誰一人として「悪意」がなかったわけではないと筆者は考えています。この物語において根っこからの悪人は確かに存在しないでしょうが、本作では色々な人々の群像劇が描かれます。その中で、人々は「自分の子どもを守るため」や、「自身の尊厳を傷つけられたから」という理由づけで、節々に「悪意が芽生える瞬間」が描写されています。

 そんな彼らの攻撃性を悪意と表現するには忍びないかもしれません。ですが、「なにかのために誰かを陥れてやろう」というものは確実に存在していて、それが発展したものが「悪意」であるという事もできるのかもしれません。

2.「思い込み」を克服する者たち

 本作におけるキャラクターは、母親・早織と担当教諭・保利、そして校長は、「怪物の要素」を克服する主な人物として描かれています。
 彼らは湊と依里という物語の中心人物を取り巻く大人として代表的な存在として表現されています。彼らは自分自身の悪意や怪物的な要素に晒されながらも、少しずつ思い直していき、気づかないながらも明確な変化が生じています。

 この中で特に物語を大きく動かすことになるのが、担当教諭である保利でした。彼は湊と依里が残した作文のメッセージに気が付き、二人の関係を示唆するようになり、湊の自宅にまで行き、母親の早織に今までの事を謝罪します。そしてそのまま嵐の中消えた湊をともに探す展開になるのですが、彼は物語の転換の起点を作ることになりました。

 保利教諭は「湊が依里のことをいじめている」という思い込みを、依里の作文を見てその関係性の断片に気が付きました。ここで彼が、ふたりの関係にどこまで見抜けていたのかはわかりませんが、少なくとも保利教諭は思い込みからその先に進むことになります。
 同時に母親・早織も保利教諭に対しての思い込みが変わることとなり、ふたりで湊と依里を探しにいくことになります。

 彼らはいかにして「思い込み」を克服したのでしょうか。ここで問題になるのは、彼らはきっかけをもとに思い込みを矯正しただけであり、自発的にしていたことは「他者と向き合うこと」のみであったことです。

 これは世の中に蔓延っている多くの「思い込み」に対してのアンサーであり、唯一の方法であるとも言えます。現実世界で私たちは、色々なものに対して先入観を持ち、「この人は〇〇だ」なんて思うことがあるでしょう。
 そんな私たちがそこから一歩先に進んだ視点を持つためには、その人たちと向き合い続けるしかなく、人と向き合うことの難しさを語っているようです。

 この物語においてはサイド的な立ち位置になっているキャラクターの中で、その難しさを考えさせる人物がいます。それが湊らが通う学校の校長です。この校長は物語の中でひときわ不気味なキャラクター性をしています。
 孫を事故で失ったということから、精神的な錯乱が予想される一方で、スーパーで駆け回る子どもに対して足を引っ掛けるなど、悪辣な部分も描写されており、果ては「孫を殺したのは校長自身では?」とすら噂されています。結局その真偽については最後まで明かされることはありませんでしたが、そんな校長は湊との会話にてこんな事を語っています。

「誰かにしか手に入らないものは幸せとは言わない。誰でも手に入るものを幸せ」

 校長はそう言いながら、湊にトランペットを、自らはホルンを吹き学校に響き渡るように鳴らします。校長は過去、吹奏楽部に所属していたそうです。曰く「大きな音を鳴らすと気持ちも晴れる」とも告げているので、これが「ストレスの発散」でもあるようです。 
 またここでの校長は、今までのキャラクター性とは真っ向から逆の人物像を持ちます。今までの曖昧で不気味な様子とは打って変わって、純粋な教育者としての側面を併せ持っているようです。
 彼女は同時に「しょうもない」というようにストレスを吐き捨てるようなセリフを呟いています。

 この言葉にはどんな意味があるのでしょうか。一見これは嫌味のような一言ですが、恐らくこれは「湊がその時点で思っている幸せ」に対しての言葉だと思われます。

 その時点で湊は「幸せは特定の誰かにしか手に入らないもの」と考えていました。それに対して校長は上のセリフを呟いたわけです。
 校長の上記の言葉の意図には「幸せは普通に生きていく上で積み上げていくもので、特別な何かを追い求めるようなことをするのはしょうもない」ということなのかもしれません。

3.「幸せを脅かす者」は誰か

 幸せということは湊にとって、「自分が思う幸せと母親が思う幸せが違っていること」に対して苦悩を抱きます。
 物語の冒頭における母親・早織の言葉は「家族を持って普通に暮らしてくれればいい」というものでした。これに過剰な反応を示した湊は、ここで明らかに自分が思っている幸せが違い、かつ手に入らないものであると思っているようでした。

 物語終盤、校長との会話にてこの事を言及されたのですが、ここで校長のセリフが「誰にでも手に入る」ととあったからこそ、湊は校長とともに大きく楽器を吹くことになります。
 ある意味ではこの、「幸せが誰にでも手に入るもの、感じるもの」というものが湊にとっては救いだったのかもしれませんが、この物語における「一般的な幸せ」と「湊と依里にとっての幸せ」が明確に違っており、およそそれは交わらないものである事を示唆するようです。

 それはなぜでしょうか? 現代社会において最も幸せであるとされているのは「結婚をして家族を作ること」とされています。これは田舎のような閉ざされた環境でこそ、深くなっていくものです。昔のような環境では、父権制やパターナリズムと呼ばれるものでしょう。

 確かにそれは幸せであるかもしれません。結婚をして、子どもをつくって、つつがなく生活する、それが至上のものとして扱われてきた背景は崩れることはありませんし、「子どもを残して次に繋げていく」ということが社会において重視されることは不思議なことではありません。

 ですが湊と依里にとって、その言葉は明らかな「重荷」でした。「もしかしたら自分は誰かと結婚をして子どもをなすことなど出来ないかもしれない」、湊はことさらそう思ったかもしれません。だからこその冒頭の行動につながるわけです。
 ひょっとしたら物語冒頭時点で、湊は自らが依里に向ける友情を超えた感情のことをかなり明確に理解していたのかもしれません。だからこそ、「家族」という言葉にあれほどの行動をしたのでしょう。

 湊と依里にとって、幸せはなんでしょうか。恐らく、二人の関係がこのまま熟成され、長く多くの時間を共有することでしょう。今現在の彼らの幸せはおおよそそう捉えることが出来ます。

 しかし、これに対してこの物語の他のキャラクターや受け手には、様々な解釈が存在します。
 「ふたりは男の子なんだから、いつかは本当に大切な人が見つかるよ」と考える事もできますし、もっと攻撃的に「同性愛なんて気持ち悪い。そんなの幸せになれるわけないからとっととやめろ」というふうな考え方もできます。

 これは現代における「同性愛を巡る差別」と表現されるかもしれません。現代では多様性が叫ばれているなかで、このような意見は淘汰されるように社会はなっていますが、それに対して「ポリコレだ」と叫ぶ人も一定数いますし、多くの考え方があって然るべきだと個人的には思います。
 しかしその思い込みが、この物語において「湊と依里の幸せを壊す事になりうる」ということは物語において認識するべき事柄であると、この作品では最後まで主張していました。

 湊がもし、心の底から「依里を愛していた」のなら、母親・早織が言った「家族を持って(異性愛者として)普通に暮らす」という言葉はマイナスな意味合いを持つでしょう。しかしそれは、母親・早織が悪意を持って言ったことではありません。むしろ湊の事を想って「自らが思う一番の幸せ」と表現したまでです。

 これは果たして「同性愛を差別している」わけではありません。湊と早織のなかで、決定的に「思い」に差があって、別々の尺度で見た幸せを語っているだけです。問題はこれらのすり合わせを行うことがなかったということであり、物語後に彼らが気持ちのすり合わせをするかもしれません。

 湊と依里がもし仮に、「性的マイノリティであることが幸せを阻む」とすれば、その正体は「あらゆる思い込み」によって生じる社会が形成される故であるかもしれません。

 やや飛躍した話になりますが、「同性カップルが子どもを持つ」という状況になった時に、肯定的、否定的どちらの意見も飛び出します。「そういう社会もいいよね」という意見もあれば「同性カップルが子どもを持ってまともな子どもが育つわけがない」という厳しい意見もあるでしょう。それらを評価して、「これはだめ、あれはよい」と表現するのは早計でしょうが、そこに息づく「思い込み」は決して否定することは出来ません。
 私たちが持っている思い込み、それらは確かに、今まで生きていた「経験」や「知識」から導き出されることかもしれません。ですがそれが真実であるとは限りませんし、これからの世界の発展を考えるうえで「あくまでも可能性の一つでしかない」わけです。

 もし、湊とと依里の幸せを受け手が勝手に語るのであれば、それが「同性愛を差別するか否か」に関わらず、ひとえに「幸せを阻害しかねない存在」になると思います。

 この物語において、あえて悪人と表現するのなら、「自分の思い込みを現代社会においてすり合わせることもしない人々」でしょう。誰にも向き合わず、何にも向き合わない、それこそが悪であるのかもしれません。

【ネタバレ注意】第六章:「全員の社会」と「二人だけの宇宙」

1.描かれた「二つの関係性」

 本作の登場人物は「人間の関係性」が細かく、現実的に表現されているのですが、その中でも「付き合う人間によって態度が変わる」という当然の人間関係が描写されています。

 湊は「母親との人間関係」と「学校での人間関係」、「依里との人間関係」が大きく分けて描かれていました。この中でも特殊なのは「依里との関係」であり、同じ人間にも関わらず環境によって大きく関係が異なっています。

 湊と依里の関係は、「学校」と「ふたりきり」のときとは明らかに違っています。同時にふたりもそれについて了解している様子でした。その時の二人の関係は彼らしかわかりませんが、ここで描かれた「二つの関係性」はこの物語の肝であると言えるでしょう。

 人間は色々な人間と交流することで、「社会」を作っていきます。そこで求められることには「社会的な規範」や「望まれる振る舞い」が存在しており、この物語の多くの人物はそれに適応して生きていくことになります。

 この物語のあらゆる人物は、その社会的に要求される要素を身にまとって生きています。作中の大人たちはその要求に沿った上で行動しているという節もあります。それらがないと生きていくことが出来ないということを理解しているからです。
 作中において湊もその例外ではありません。母親・早織に対しては自身の感情をひた隠しにし、学校では依里を遠ざけました。湊は依里に対して最初から好意的なところがありましたが、それを覆すことをせずに「学校」と「二人きり」の時を共存させていました。

 湊と依里の特殊な関係性は、二人にとって関係が深化していくとともに少しずつ変化が生じるようになってきます。依里はあからさまに湊のことを好いて、湊はそんな依里のことを愛おしく思うと同時に戸惑いを感じています。
 ふたりの間柄には、まさに平行的に二つの関係を行き来しながら進んでいき、最終的には「要求される世界」から「自分自身たちが作り出す世界」へ動き出すこととなります。

 湊と依里がもし仮に、このままの世界を、「社会的に要求される世界」を進んでいったらどうでしょう。
 これから彼らが要求されていくものは、性的なものに限定しても非常に多くあります。「恋人は?」「家族は?」「跡取りは?」それらは全てプライベートな問いかけであり、決して逃れることの出来ない要素もであります。

 この作品においてそれは断片的にしか語られませんが、実際の性的マイノリティにおいて降りかかるものでもあります。今後のことはわからない、けれどそこで要求されるものの重圧を、湊は強く感じたからこそ、物語の冒頭のような自らのことを顧みないような行動に出たのかもしれません。

2.依里の作文タイトルに込められたもの

 物語中盤、依里が書いた作文が描写される場面があります。そのタイトルは「品種改良」であり、到底作文の内容を想起するようなものではありません。
 この作品では、依里は他のキャラクターには存在しない多くの一面を持っています。実の父から「怪物」と罵られ、学校ではいじめに見舞われ、それでも自分であり続けています。それは良いことに聞こえるかもしれませんが、裏を返せば「依里は自分が社会から望まれる存在ではない」と感じているのかもしれません。

 依里は父親から「怪物だったが治った」とされて一瞬の間それにそぐうような振る舞いをしていますが、恐ろしいくらい短い時間でそれを否定しています。
 どうしてわざわざ、現実時間でほんの数秒の間で否定したのでしょうか。おおよそこの否定の時間からして、依里は最初から一切、「怪物と呼ばれた人物を直そうとは思わなかった」と考えるほうが自然でしょう。

 それではどうして依里はわざわざそんな事をしたのでしょうか。それは「要求された役割を迎合する経験をしてみたかった」というほうが意味合いとしてはしっくり来ます。
 故に、「自らが変わるまで(品種改良されるまで)社会規範にそぐうことはしない」と依里は考えていたのかもしれません。ある意味そこには、依里が現代社会に感じているどこか諦めを感じさせます。

 依里の「社会そのもののへの諦め」は物語において随所に感じさせます。先の作文における品種改良以外にも、依里は湊との会話において「世界そのものの始まりと終わり」について語っています。

 依里は湊に対して「宇宙の始まりはビッグバンで、終わりはビッククランチ」と話しています。この物語において本当に世界が終わるわけではありませんが、物語の終盤はまさに「世界が一変する印象」を抱かせることになります。
 この物語においての転換期となった「嵐の日」は、湊によって「ビッククランチが来る」と言われ、ふたりで嵐の中秘密基地に向かいます。彼らは当然、その危険性について承知の上でそれを行い、ある意味ではその非現実的な状況に彼らの小さな世界は不意にビッククランチを彷彿とさせるものがあったのかもしれません。

 そもそもビッククランチとはなんでしょうか。これは「宇宙は大きな爆発によって出現した」というビッグバン理論の真逆、乱暴に言えば膨大に増えた宇宙のエネルギーが収縮に転じて世界は終りを迎えるというものです。依里にとっては「ビッククランチ」が生じることで自分だけではなく、そこを取り巻くあらゆるものが一度リセットを望んでいると考えることも出来ます。
 またこの話を湊も望むような態度を見せています。だからこそ湊は嵐の日に、依里とともに秘密基地(湊とよりの宇宙そのもの)へ向かったのでしょう。

 依里は自分の境遇や、自分の特殊性、湊への想いなどを受け入れた上で「ふたりだけの世界」を望んでいたのかもしれません。社会の中でのしがらみも、父親からの虐待も、学校での阻害もなく、ただただ湊とともにあり続ける世界を望んでいたとすると合点がいくところが多くあります。
 一方で依里は「品種改良」として、「社会に適応していく」ことをも作文で記述しています。またそれと同時に、物語ラストにて「僕たち変わったかな?」と変化そのものを口に出しています。

 それに対して湊は依里に「変わっていないよ」と口に出します。ここで、湊と依里のなかにある「変化をどのように望んでいるのか」ということに明確な違いがあることが示唆できます。

3.適応を目指した湊と理想を目指した依里

 この物語において「社会」と「宇宙」は明確に区分されていると筆者は考えています。
 「社会」とは、色々な人間関係やイデオロギーによって作り出されるもので、あくまでも人間的な関係性によって成立するものです。
 それに対して「宇宙」とは、世界そのもののであり、人間という存在にすら言及するほど範囲の広いものです。

 湊は「社会を疑い」、依里は「宇宙を疑う」というのが二人の決定的な違いであり、「自分の社会的な存在に疑いを持ち、一般的な幸せを追い求めた湊」と「世界そのものに対して歪さを抱き、湊に対して思いを募らせる自身すらも歪んでいると考えた依里」という立場の違いが生じさせたものでしょう。

 湊はシングルマザーの母親を持ち、決して裕福ではないですが愛情を受けて育ちました。母のことも大切に思っていたからこそ、湊は「普通の幸せを自分は持つことが出来ないのではないか」と思ったのです。それに対しての後ろめたさや、母親の期待を裏切りたくないという、家族を大切にするからこそ生じた気持ちがつきまとっています。
 しかし依里はどうでしょうか。あくまでも彼には父親の存在と、父方の祖母の存在しか語られていませんが、おおよそその生活環境は凄惨です。腕にはおびただしいほどの火傷の痕跡が残り、学校ではいじめの対象となり阻害されています。

 依里があらゆるものに対して「拒否」や「怒り」が生じてもおかしくないかもしれない境遇にあることは明らかです。だからこそ「依里が生きる世界」を宇宙として表現し、「ビッククランチ」という宇宙の終焉を想起するようになったのかもしれません。
 湊が「幸せ」を求めることに苦しさを覚えていたゆえ、校長との会話にて「幸せとは?」という概念的な話をしていたのに対して、依里は「世界そのもの」に対して新たな世界を望んでいたということは、作中において明確だったのかもしれません。

4.「ふたりの宇宙」へ向かうラストシーン

 この物語の最後を飾るシーンは非常に、印象に残るものとなっています。

 嵐の夜に消えた湊と依里は、秘密基地を抜けていつかたどり着いたフェンス張りの廃屋にたどり着きます。そこは嵐など感じさせず、美しい晴天が広がっていました。そこで依里は「自分たちは生まれ変わったのか?」という事を気にしていますが、対して湊は「きっと変わらないよ」と言い、ふたりは晴天のもとを無邪気に駆け回ります。いつの間にか消えていたフェンスを通り抜けて、ふたりは楽しげにその先へと消えていき物語は終わります。

 この物語におけるラストシーンは考察の語り草となっています。「最後に二人はどうなったのか?」や「あの世界は死後の世界なのか?」、「消えたフェンスの意味は?」などなど色々な要素が暗示されたまま物語は終りを迎えます。無邪気な湊と依里の残響とともに始まる、坂本龍一氏の「Aqua」は印象に残った人も多いでしょう。

 この物語はあえて「比喩的なエンディング」になっていると考えます。勿論作品において、ある程度明確に答えを出すことは大切なのかもしれませんが、この物語における所謂「ポリコレ的な要素」を持つ作品において、主張を統一せずにあえて物語の比喩として調和させるのは素晴らしい手法であると言えます。
 だからこそこの作品は「ポリコレ作品」というレッテルを貼られることなく、しっかりと物語に落ち着かせているのでしょう。

 このエンディングにおける「ふたりの生死」というものはあまり重要でないと筆者は考えています。なぜなら、この物語における「生死」はあまり重要視されていないように感じるからです。物語の根幹である「湊と依里の関係性と社会的な軋轢」は、生き死にに関わらず「ふたりがどれくらい納得しているか」という部分に意味があるからです。
 故にこの作品において生死は重要ではなく、むしろあのラストに盛り込まれた要素にその重要性があると感じています。

 このラストにおいての要素は「変化を期待した依里」と「ありのままを受け入れる湊」、「消えたフェンス」の3つに分けて考えましょう。

 まず「変化を期待した依里」は今までの記述とおりです。彼は物語におけるもっとも悲痛な人生を歩んでおり、作文にも書かれた「品種改良」というものが表現する通り、「依里は自分のことを社会に適応するように願った」という彼の願いが反映されています。
 嵐の日は湊が言及したように「ビッククランチ」として呼ばれていました。それはそのまま「世界の終焉」であり、依里にとって「自分もその周りの宇宙すら変わっていく」というように解釈したようです。
 依里はどうしても、「全てが変わった世界」で「湊と結ばれたかった」のかもしれません。品種改良という言葉に秘められた悲痛な依里の感情が読み取れますが、これを湊は否定します。

 湊は「ありのままを受け入れる」という選択肢をしました。湊は「自分では普遍的な幸せを手に入れることはできない」と思っていましたが、校長との関わりにより、「自分が手に入れることが出来るものが幸せ」というふうに解釈が変わったと考えられます。
 そんな湊が「ビッグクランチだ」と嵐の日を言ったのはなぜなのでしょうか。彼にとっても、あの嵐の日はどこか転換点だったと考えられます。まさに非現実的な状態と、大人たちからの解放、色々な要素が重なり二人はあの基地に向かうこととなります。
 湊と依里には、最後の晴天につながる伏線がありました。それがあの秘密基地にて車掌ごっこをしながら「そちらは晴れですか?」というセリフに隠れています。

 このときのセリフは、「車掌のふりをする」ということにしてはかなり不自然なものです。どうしてふたりはこの時、「天気」を尋ねたのでしょうか。単純にこのときの天気のことを尋ねたのかもしれません。
 ですが嵐が去ったラストシーンでは、雲ひとつない晴天がありました。そんな中で、「ふたりだけの宇宙」という暗示させるものでもあります。考え方によっては、あそこで言われていた「晴れ」という言葉は、ストレートにラストシーンにおける「ふたりだけの宇宙」であったのではないでしょうか。

 嵐が去った後、晴天の中でふたりが無邪気に駆け回るシーンはまさに、「ふたりだけの宇宙」であり、そこで湊は「それでも自分たちは変わっていない」と言いました。
 それは湊にとって、如何に世界が変わっても、「お互いが知っているお互いのことを受け入れる」ということでもあったのかもしれません。これは依里の考えた「品種改良」の考え方とは相反するものです。それでも依里はその考え方を肯定しました。自身の考えを否定するものであっても、今までの関係を完全に壊してまで、品種改良という考え方を受け入れることは嫌になったのかもしれません。
 それはひとえに、「ふたりだけの宇宙」が成立したからこそのものだったのかもしれません。

 最後に、「消えたフェンス」はどのような意味があったのでしょうか。そもそもラストシーンの場所は、物語中盤にてふたりが「この先には行くことができない」ということで残念がっていたところでもあります。
 この作品はかなり暗喩的な終わり方をしているので、「フェンスの先に何があったのか?」という部分はさほど問題ではなく、「自分の力では超えることの出来ない領域に到達した」という部分に意味があると思います。

 ふたりはラストシーンで、フェンスを超えてその先へと向かっていきます。どのようにしてフェンスがなくなったのかは不明ですが、「世界そのものが変わったことで壁がなくなった」ということは、この世界そのものを示していると言えます。
 環境が変われば、障壁そのものがなくなるか、あるいは変容していきます。これは、差別や社会的な抑圧は「環境によって作り出される」事を暗喩しているのかもしれません。

 大抵多くの人たちは「自分は差別なんてしていない」と考えていることでしょう。この物語のキャラクターたちと同じで、「悪意」というものはそこにないのかもしれません。
 例えば今作のような性的マイノリティに焦点化すると「自分は同性愛は否定していないけれど、社会的に認められていないよね」という主張をする人たちが現実に一定数いますが、それは本作で語られたような「怪物の要素を持つ者たち」と同じなのかもしれません。「否定していないけれど」その武運に存在する潜在的な否定こそが、環境によって変わったフェンスを意味しているのかもしれません。

最後に

 ここまで御覧頂いた方々がいましたら心からお礼申し上げます。

 見切り発車が如く、邦画史にのこるであろう「怪物」という作品についてつらつらと私の考えを記述させていただきましたが、いかがだったでしょうか?
 この物語は性的マイノリティを題材にしていながら、それに過剰な焦点化をしないというところで非常に深みのある作品であり、あえて暗示的に作品にしあげたことで、昨今問題視されがちな「ポリコレ作品」という枠組みを超えた作品に仕上がったと感じています。

 これを投稿する現時点において、「怪物」は劇場で公開しているのですが、これを見て少しでも「気になった」という方々はぜひ劇場に足を運んでくださいますよう心から願っています。
 ちなみに筆者は、この映画の円盤を久しぶりに欲しくてたまらない状態になっているので、個人的なこの作品の想いをここに綴らせていただきました。

 それでは、長々と書かせていただいた今回のレビューを終わりたいと思います。
 ここまでご覧いただきありがとうございました。ぜひ劇場にて「怪物」の独特な質感を楽しんでいただきたいと思います。

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