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【映画レビュー】全く別の時間を過ごす恋【映画・秒速5センチメートル】

※サムネイルは公式映画ページ「秒速5センチメートル」より

はじめに

 昨今の日本映画で台頭しているのはなんといってもアニメーションです。鬼滅の刃を皮切りに興行収入の上位は多くアニメ映画が占めるようになったなかで、特に名前を聞かれるようになったのが「新海誠氏」です。

 2016年に「君の名は」にて一大ムーブメントを作り出した新海誠氏は、その後も「天気の子」や「すずめの戸締まり」などの大人気作品を輩出する、日本アニメーションでも屈指のクオリティを持っていると言えるでしょう。

 そんな新海誠氏の代表的な作品は言わずもがな「君の名は」ですが、それよりも前に新海誠氏の作品については意外に知名度が低いのではないでしょうか?

 今回はその中でも、「秒速5センチメートル」という作品をご紹介させていただきます。
 こちらも極めて有名な作品ではありますが、比較的古い作品ということで、見たことがない人もいるのではないでしょうか?
 本作は主題歌である「One more time, One more chance」が有名ですが、作品そのものも情緒的で素晴らしいものになっています。

 本映画レビューは「ネタバレなし」と「ネタバレあり」でいくつかポイントを分けて考えさせていただきます。どうぞ最後までご覧いただければ幸いです。

作品紹介


秒速5センチメートル「フォトギャラリー」より

どれほどの速さで生きれば、きみにまた会えるのか

秒速5センチメートル
小学校の卒業と同時に離ればなれになった遠野貴樹と篠原明里。二人だけの間に存在していた特別な想いをよそに、時だけが過ぎていった。

そんなある日、大雪の降るなか、ついに貴樹は明里に会いに行く……。

貴樹と明里の再会の日を描いた「桜花抄」、その後の貴樹を別の人物の視点から描いた「コスモナウト」、そして彼らの魂の彷徨(ほうこう)を切り取った表題作「秒速5センチメートル」。3本の連作アニメーション作品。

引用:秒速5センチメートル「ストーリー」より

 少しでも興味が湧かれた方は、ぜひ御覧頂いてから本文をお読みください。

【ネタバレなし】第一章:初恋を真摯に描くということ


1.初恋は最も異質な「恋愛」

 まず本作のテーマである「初恋」について考えていきましょう。
 初恋と言って深く考える人は少ないかもしれませんが、人間にとって「恋」や「愛」という関係はかなり特殊です。ことさら子どものときは、その関係性についての思考はあまりしないかもしれませんが、ある程度考える能力や癖が身についてくると、「人間との関係性」の違いが露骨に見えるようになります。

 我々は人間の社会性を「家族」「学校」「会社」「国」のような単位で学んでいきます。
 徐々に大きく、人数も増えていくなかで、我々は色々な人間関係を学ぶことになります。
 その中でも恋愛というものはとりわけ特別です。相手のことを思いやり、大切にするという面では他の人間関係と差はないのですが、それが「恋愛」という概念を加えることで途端に特殊性は増していきます。

 恋愛はそれだけでもかなり特殊ですが、「初恋」はその中でもとりわけ異質なものです。
 なにせ初めて、相手のことを「性的に意識し始める」のですから、その衝撃と違和感は半端なものではありません。

 人間の感情は肉体と極めて強くリンクしているということは、最近は比較的メジャーな話ですが、そこにおいてどれだけの影響を持っているかは人によって考え方が全く違います。
 そのため、「心」が影響を受け始めたことが「体」に影響していき、最終的にはそこで「性的=肉体的」な違和感が生じ始めるわけです。

 更には、初恋を経験するのは大抵、子どもの時です。精神的にも未熟なときの恋というものはそれだけ大きな影響力を持ち、その後の人生にも爪痕を残すことになります。

 これこそが、「初恋」というものを考える上でいくつも生じる異質さです。

2.幼い関係における愛の曖昧さ

 世間的には「愛」をテーマにした作品がとても多いのですが、この作品ほど真摯に向き合っている作品はないかもしれません。

 というのも、一般的な恋愛をテーマにした作品は「成長」をかなり明確に見せるのが普通です。
 幼い日の曖昧な恋心を、時系列を進めることでキャラクターたちの関係性を少しずつ進展させていくのが定石であり、その進展そのものをストーリーに盛り込むのが一般的です。

 それを本作ではあまり描きません。それは決して移り変わることのない「幼い関係」を美しく描写し続けます。本来であればリアリティの欠如が見られる変わらない関係とすら思えることこそ、本作の描く「幼い愛の曖昧さ」にあると筆者は感じています。

 幼い時の恋愛というものは、男女の区分はかなり曖昧なところからスタートします。小学校低学年のときは別段気にせず男女同士で遊びますが、年令を重ねるごとにその距離は確実に広まっていきます。
 そこにはなんとなく「男女の違い」というものを感じるようになりながら、「友達」と「恋愛」の違いを意識するようになっていきます。

 この時期における「友情」と「恋愛」の違いというものはなんなのでしょうか。そこに対して正確な回答をすることはかなり難しいでしょう。大人になってしまえば、その感覚は既に過去のものとなっているため、論理的な整合性を保つことはできなくなります。

 この曖昧さこそが「初恋」というものとニアリーイコールであると言えるかもしれませんが、この曖昧さに焦点を当て続けた作品が本作の特殊性です。

3.初恋というテーマ性

 初恋というものが特殊な恋であるということは再三に渡って話させてもらいましたが、本作に最も強調的なテーマとして「子どもから大人になるまでの時間の過ごし方は一定であるか?」というものがあると思います。
 ここについては三章にて解説させていただくのですが、これは「恋愛的な意味」以外にも、「子どもが大人になること」も同時に表現しています。

 この作品は小学生から中学生、そして大人になるまでのプロセスが章立てされて表現されています。
 本作はこの手の映像作品としては珍しく三章に分かれて構成されています。

 どうしてこのような章立ての構造になっているのでしょうか。あえてこのような物語を完全に分断しているのは、それぞれの時系列を一つの物語として捉えているからだと考察します。

 小学校から中学生を表現する第一章、中学生から高校生を表現する第二章、大人を表現している第三章、それらを物語として分断することで、一つの物語として取り扱い、より洗練され、リアリティのある初恋を取り扱うことに成功していると言えるのかもしれません。

【ネタバレなし】第二章:「セリフ」に込められた映像表現

1.映像作品における「セリフ」の扱い

 本作の一つの特徴として、「セリフ」があります。
 この物語は語り手となった人物がナレーターのように物語における細かな心理描写を語る構成になっています。

 これは本来映像作品にはあまりない表現です。映像作品というものは、「視覚」を中心に訴えかける作品が多い中、「セリフですべて説明する」ということはノイズになってしまうことも多々あります。
 そのため、映像作品における「セリフ」は殆どの場合は補助的なところに使う場合が多いのですが、この作品ではあえて心情描写のほとんどを「セリフ」によって行っています。

 人によっては「冗長すぎる」という印象すら湧くかもしれませんが、本作はそれを過剰なほど取り入れています。
 これをどのように評価するかは判断によって変わるかもしれませんが、筆者はこの作品においてこの過剰なセリフ回しは好意的に感じています。

 新海誠氏というと、アニメーション的でありながら妙にリアリティのある映像を作り出すことで有名ですが、本作ではその圧倒的な強みである映像をあえて補助的に使うことで、受け手が感じる感情を掻き立ています。

 これはどちらかと言うと小説的な表現です。
 小説は映像とは異なり、活字によって「相手に想像させる」ということが前提条件になります。それに対して映像表現では、むしろ相手に「想像させる」ということを極端に制限していると言えます。

 それをあえて映像作品で行おうとすると、例えば「キャラクターの表情や態度で、それとは異なる感情を読み取らせる」ということになります。
 それを本作では「キャラクターを曖昧に表現し、語り手という限定的なキャラクターからのみ視点を語らせる」という間接的な手法を用いて「想像させる」ということをしています。

 自らの作品の強みを強調させる方向に移しているのは、さすがのクリエイター集団であると言えるでしょう。

2.切なく痛々しい「セリフ」たち

 本作のナレーションは賛否が分かれるところはあるかもしれませんが、映像的表現をあえて「情景に重ねて感情を煽る」という手法は非常に画期的であると筆者は考えています。

 それらを体現しているのは、小説にかなり近い台詞回しにあります。
 本作における台詞回しは基本的にかなり「痛々しさ」があります。本来であれば小説で用いられるような言葉を、あえてキャラクターたちの語りとして取り入れることで、それらを主観的かつ自己中心的に振る舞っているように思わせます。

 それらを痛々しく感じるということは、受け手にとってもそのような「自己中心的な視点」ということが記憶に残っているからです。当然それは「思春期」という、精神的なよちよち歩きの段階です。
 そこを経ており、かつ映画の非常に美しい表現が更にその痛々しさを掻き立てます。
 圧倒的なリアリティと美しさによって、受け手の精神性を揺さぶってくる、それこそが本作の情緒的な感性に込められた秘訣であると考えられます。

 更にこのような徹底的なナレーションによる語りは、本作を語る上で必要不可欠な要素であると言えます。これがないと、キャラクターそれぞれの描写が薄くなってしまいます。
 キャラクターがナレーションによって物語を進めることで初めて、本作のキャラクター描写として成立させているからです。

 本来であればここまで緻密な映像描写があるのに、あえてキャラクターの描写をナレーションに頼るということは悪手に思えます。というより、技術的な誇示によって、どうしてもクリエイターの得意分野を際立たせたいというものが本音だと思われます。

 にも関わらずあえて情緒への意図を残したのは、素晴らしい采配であると感じています。

3.主観が作り出す「距離感」の悪夢

 ナレーションによって描写されているキャラクターは、それだけにとどまらず「距離感」というズレを引き出します。

 本作における「距離」ということは、非常に重要な要素になります。なぜなら人間は、同じ時間を過ごすことで初めて親密な関係になるといえるからです。それに加えて本作の登場人物は、子供から大人になるまでの過渡期を表現されており、大人であれば、些細な距離感であっても、子供であれば全く異なる距離感を抱くことになります。

 本作の第一章では、主人公である貴樹が引っ越してしまったヒロイン・灯里のもとへ会いに行くというシーンがあります。
 東京から栃木、その距離は大人であればなんてことはない距離かもしれません。そして実際、貴樹は鹿児島への引っ越しをきっかけに明かりの下へ会いに行くことを決意するわけですが、中学生という二人にとって、この距離感というものは大人が感じているそれとは比較にならない程大きなものです。

 この距離感について、本作の「セリフ」が絶妙に作用しています。徹底的に感情移入をさせるセリフをあえて全面に押し出して、主人公らが見ている光景を情景として描写することで、彼らの持っている感情をよりリアルに追体験できます。
 更にはその感覚は、「距離感」を大人である受け手にまで知らしめてきます。

 離れていれば会いに行けば良い、その感覚を「絶望的なほどの距離感」に落とし込み、その感覚をあえて間接的に感じさせることで、我々は彼らが抱いている距離感をかなりリアルに抱かせます。

 本来であれば、客観的な距離感と、キャラクターが感じている距離感の明確な違いがあり、それを丁寧に伝えることは難しいでしょう。なぜなら受け手の多くは大人であり、また明らかに本作は大人向けに作られているためです。
 この作品の構成、表現方法そのものが、この「距離に対しての感覚」を理解させるものであるように感じられます。

 これこそが、本作における「セリフ」の意味になっているのかもしれません。



※これより先は物語のネタバレを含みます。作品を御覧頂いてからの閲覧を推奨します。





【ネタバレあり】第三章:ふたりが過ごした時間の差

1.二人の結末の差はなんだったのか

 本作は主人公・貴樹とヒロイン・灯里の初恋を描いた物語ですが、本作の結果は恐らくほとんどの人が物語を見ていて初恋の行方については想像がつくかもしれません。

 第一章にてお互いのことを意識しあったうえで、第二章でおとなになるまでのプロセスを描き、第三章で貴樹の恋の結末が語られています。

 三章では大人になった貴樹と灯里が描写され、灯里が別の男性と結婚をするという場面が語られています。そして貴樹は灯里との出来事を忘れられず、別の女性と付き合ってもやはり愛へ至ることはありませんでした。

 二人の過去を彩った初恋は、悲愛に終わったわけですが、このような悲痛な恋に終わったのはどうしてでしょうか。本作においていくつものターニングポイントが存在していたはずですが、結果的に物語はこのような結末になりました。

 結論から言うと、二人の結末に生じた差は「初恋への依存性」であると筆者は考えます。
 貴樹は勿論初恋への依存は極めて高い状態にあります。本来の人生は初恋以外にも、色々な要素があり初恋以外の要素のウェイトが重くなっていきます。貴樹にもそれらの「構成要素」というものがあったはずなのですが、彼の執着心が初恋に縛られ続ける選択をしてしまったということになります。

 一方の灯里は、初恋を大切にしながらも、少しずつ他の人生の構成要素を身に着けていったのでしょう。だからこそのこの結末に至ったということです。

 人生というものは油絵のようなものなのかもしれません。キャンパスの上に塗られていく絵の具はやがて固まっていき、その上に更に色を塗り重ねる事ができます。
 初恋、友情、幸福、苦しみ、あらゆる絵の具を塗り重ねて言って人生というものは形成されていきます。貴樹はその中でも、初恋という完成されすぎた部分描写を大切にしすぎて、初恋に一切の手心を加えることがなかったのかもしれません。
 本来であれば初恋が土台となって、色々な出来事が重なっていきます。そのような人生的な厚みというものが、貴樹には乏しかったのかもしれません。

2.秒速5センチメートルに込められた「等速」の意味

 本作のタイトルにもある「秒速5センチメートル」とは、作中冒頭にて「桜の花びらが地に伏していくスピード」であることが話されています。そしてそれが本作のタイトルとなっているのはなぜでしょうか。

 先にお話した通り、本作では「主観的な時間の差」というものが頻繁に盛り込まれています。主人公である貴樹が過ごした時間、ヒロインである灯里が過ごした時間、客観的には同じ時間を過ごしていますが、ふたりにとってこの時間は明らかに違ったものであったことは、受け手である我々にとっても直感に反しないでしょう。

 本作のタイトルである「秒速5センチメートル」は、桜の花びらが落ちるという情景を彷彿とさせると同時に、同じ情景を見たとしても体感時間が変化することも同時に示していると思われます。
 冒頭にて、貴樹と灯里が「来年もこの桜を見れたら良いね」と笑い合うシーンにて、「秒速5センチメートル」という言葉の意味について語られ、同時に桜が舞い降りるシーンがあります。

 これはたしかに、客観的には「秒速5センチメートル」で落ちているのですが、人間の時間間隔でいうとそれは常に可変的です。なにせ我々は、視界で識別した瞬間の情報量を脳に送り込んで、時間を感じているのですから、その時の情報量や処理している感情によって、明らかに感覚は変わっています。

 つまり貴樹が見ていた桜が落ちるスピードと、灯里が見ていた桜が落ちるスピードは全く違ったものであったことが想像できます。これこそが本作の全編に通して込められたメッセージであると筆者は感じています。

 同じものを見ていても、同じ時間であっても、人間は過ごす時間が異なっていて、貴樹と灯里もまたこの例外から逃れることが出来なかった。生きる環境、場所、それが異なれば更にその時間のズレは顕著なものになっていき、「初恋に置き去りにされた貴樹」と「未来に向かい大人になった灯里」という強烈な結果の差を作り出したのでしょう。

 「秒速5センチメートル」という言葉がタイトルになっている以上、この言葉が全編を通したメッセージ性を持っていることは明らかです。
 それは「等速」と「主観的時間」の絶対的な違いに加えて、「体感時間」に対しても言及しているのかもしれません。

 人間には確かに色々な時間の過ごし方があります。最近では時間のパフォーマンスとして「タイパ」という言葉が使われるようになりました。

 本作において貴樹は、自らの時間のほとんどを「初恋である灯里との甘い思い出を想起し、延々とそれに執着し続ける」ということに使っていました。勿論それはそれで良いのですが、その時間を灯里も同じように過ごしているわけではありません。貴樹及び受け手の視点では、灯里がどんな時間を過ごして、どんな変化が生じていったのかはわかりませんが、三章の結末を見る限り、灯里の過ごした時間は「貴樹と過ごした幼い時間」よりも大きな変化をもたらしたことは事実です。
 貴樹はたった一人、初恋の時間と同じ時間を過ごし続けていたとも言え、それは裏を返すと「貴樹は初恋以上の時間を過ごそうとしなかった」と解釈することも出来ます。

 先にも記述した通り、「時間をどのように過ごすかは人それぞれ」ではあるのですが、貴樹の場合は「灯里も同じ初恋の時間を過ごしている」という思い込みによって、それ以上になったかもしれないあらゆる時間を捨ててしまったとすることも出来ます。
 本来であれば貴樹はもっと大切な時間を過ごすことが出来ていたのかもしれません。それこそが世間的に言われている「青春」であり、貴樹は彼にとって尊すぎる初恋に固執した結果、それらの時間をすべて失ってしまったと言い換えることもできるのかもしれません。

 ある意味では、この作品における貴樹は「初恋」が呪いのように表現されていると解釈することもできるでしょう。人を好きになるということは素晴らしいことであり、そこで関係を作っていくということもまた尊いことなのですが、それには「人を愛する」という素晴らしい意味合いだけではなく、「愛する気持ちは時間を代償にする」という根本的な部分にも触れています。

 この世はあらゆる場面において「時間を代償として過ごす」ということが大前提です。仕事をしてお金がもらえるのも、「その間の時間を切り売りしている」ということになるわけです。
 この世における時間は基本的に全て等速で進んでいくわけなのですが、人間にとって時間は常に「主観的に」進んでいきます。だからこそ、貴樹のように一つのことに執着した時間の使い方は、実は思う以上にハイリスクなことなのかもしれません。

 とはいえ、それらのリスクを無視して突き進む勇気も時として必要でしょう。確かに貴樹に訪れた結末は決して良いものではありません。しかし、灯里の振る舞いによっては、貴樹と灯里が結ばれた結末もあったかもしれないという部分には言及しておく必要があります。
 貴樹が行ったことは、青春の時間を引き換えに初恋を尊重するという行為であり、初恋を本当に成就させるにはその方法しかなかったわけです。そのような世界についても、可能性の段階において否定することは出来ないと筆者は考えています。

 もし仮に、貴樹がもっと積極的に、灯里と「同じ時間を過ごしていた」のなら、また異なる結果になったのではないでしょうか。

3.異なる時間を過ごした二人

 本作におけるキャラクターの中で、貴樹と灯里というふたりの人物が主体として扱われているのですが、一方でその時間が描写されているのは貴樹のみです。

 灯里は断片的にすら時間が語られることがない傍ら、貴樹は高い熱量でそれが語られていました。美しすぎる初恋を大切に抱え続けた貴樹は、その美しさに貴樹は魅入られすぎて、それを抱いたまま大人になりました。

 全く持って語られていませんが、灯里の過ごした時間は恐らく貴樹とは異なるものだったでしょう。思春期を過ごし、友人や新たな関係性の形成もあったのかもしれません。断定できるのはそこに貴樹は存在せず、他の誰かが常に居続けていたということです。それがあるからこそ、灯里は最終的に貴樹とは別の人と交際し、結婚することになったわけです。

 それではもし、灯里が貴樹と同じ時間を過ごしていたら結果は変わっていたのでしょうか。
 これに関しては難しいところがありますが、筆者はこの物語の形式や表現から「変わりうる」と考えています。

 人間関係において「同じ時間を過ごす」ということはそれ以上の意味があると言われています。人が関係性を深めていくためには、「同じ時間を過ごす」ということが絶対的に必要であるそうで、むしろそれさえすることができれば、どんな人間でもある程度の関係を形成することができるそうです。
 これは裏を返すと、「どんなに相性の良い人間でも同じ時間を共有しなければ親しい関係にはなれない」ということにも繋がりうるということです。

 人間にとって、時間の共有ということは非常に重要な要素になり、同時にとても相性の良いであろうふたりを分かつことになった最たる原因が「別々の時間を過ごした」ということが原因だったのかもしれません。

 とはいえ、二人が同じ時間を過ごしたら結果が変わっていたのかという問いかけは一つの「もしも」という可能性の一つであり、本作において二人の結末を当てはめるのは正直ナンセンスかもしれません。
 本作はあくまでも「叶うことがなかった初恋」という語り口で進められるからです。

 むしろ本作における「もしも」を模索するのは、どちらかというと我々受け手の方にあると筆者は考えています。
 初恋という特別な気持ちは、およそ多くの人間に訪れるであろう感情であり、それに向き合わなければいけないものでもあります。それこそ初恋なんて、精神的にも不安定な幼い頃に経験することがほとんどであり、そんなときに向き合わなければ、現代社会における健全な関係性になる可能性が乏しくなってしまうという点では、非常に重要な要素です。

 本作は、多くの人たちに「初恋」に対して整理をつけさせる目的もあるのかもしれません。
 映像作品というものは、視覚的表現によりこちらの感情を掻き立てることを一つの目的としていると筆者は考えています。勿論全ての媒体の作品というものはそうなのですが、映像作品はよりイメージを明確に伝えることができます。

 本作はその切ない作品性から、「見るのが辛い作品」として挙げられることがあります。それはあまりにも切ない作品に加えて、美しく儚い映像描写によって生み出される圧倒的な感情移入が原因かと思われます。
 その感情移入こそが、本作が表現しようとした最も大きなものなのかもしれません。

【ネタバレあり】第四章:初恋への捉え方が招く悲劇

1.初恋にとらわれる者

 貴樹は初恋に囚われすぎた結果、このような悲惨な結末を辿ることとなりました。
 本作は初恋を巡る物語ではあるのですが、具体的には初恋に囚われるということはどういうことなのでしょうか。

 貴樹は灯里との関係性を重視するあまり、「他の人間関係の殆どを捨てる」というあまりにも大きすぎる代償を支払うことになりました。
 これは一般的に「恋い焦がれる」ということと通づるものがあるでしょう。

 人間関係とは相対的なもので、「家族に対して使う時間」「友達に対して使う時間」「恋人に対して使う時間」それぞれすべて人生の時間を削っていくことになります。
 そのため、「誰に対して時間を使うのか」ということは非常に重要な命題になります。

 恋愛に恋い焦がれるということは、それだけ「恋愛に対して時間を使う」ということになります。通常の恋愛ですら、「友人関係をおろそかにする」ということがよくあるのですが、それが初恋ともなればより失うものは大きくなるかもしれません。

 なにせ貴樹は、幼い時点から「灯里との恋愛とその後の関係性」に対して強く固執していたためか、学生時代から過剰に他者と関係を形成する事はありませんでした。
 それを強調するエピソードが第二章になります。第二章は唯一の「貴樹と灯里以外のキャラクター」が主人公となり、花苗が語り手となって貴樹がどんな生徒であったかを第三者目線で語られることになります。

 貴樹はあまり積極的に周囲と打ち解けることはありませんでしたが、拒絶しているわけではありませんでした。そのため花苗と貴樹は、花苗の一方的な気持ちはあったとはいえ比較的良好な関係を形成していました。

 しかし花苗は、貴樹が抱いている感情の矛先についてかなり正確に理解していました。勿論その感情の矛先とは「灯里への気持ち」であり、それであっても花苗は「きっと明日も貴樹君が好き」という感情を吐露していました。

 花苗はこのエピソードにおいて、貴樹への感情を明確にしながらも、思春期的な感情の迷走も含めて様々な成長を果たしていました。もしかしたら貴樹が花苗に対して好意的な接し方や、「恋愛的な好意」を向けていれば、悲しい初恋の末路はなかったのかもしれません。

 貴樹は「初恋の囚われたため」、花苗との関係性に至ることはありませんでした。それはつまり、大切な人間関係を形成することがデキなかったと捉えることもできるのかもしれません。

2.貴樹が囚われたもの

 貴樹が「初恋」に囚われていたのは紛れもない事実ではありますが、彼が盲目的に何年も囚われ続けた理由はなんだったのでしょうか。

 確かに貴樹は「灯里との恋愛」を強く望み囚われていたということはあるかもしれません。
 しかし本当にそれだけであれほどまでの執着を見せるでしょうか。本作では継続的に「灯里との関係性」について表現されているため、そのまま「初恋」と解釈することもできるのですが、もっと一歩踏み込んで考えると、「灯里との未来」に執着していたのではないかと考えることができます。

 貴樹のセリフには「過ごされることのない灯里との想い」が何度も語られていました。
 確かに現実に貴樹は灯里と過ごしていた時期もあるのですが、実際貴樹は小学校の頃にその時間を過ごし、かつ一度はその経験が叶った場面もありました。

 そのとき貴樹は、灯里とともに時間を過ごし、明らかに特別な関係であることを強調させるようにキスの描写がありました。というよりこの描写こそが、貴樹と灯里が過ごした最後の描写になりました。それ以降、この二人は実際に会うことはなく、そして連絡を取ることもなくなり、このときから二人は共通の時間を過ごすことがなくなったことになります。

 二章では、貴樹が中学校、高校とどのように過ごしていたかが描写されており、その中には「自らの感情を文章にして送る予定のないメールを携帯に打ち込む」という描写が見られます。

 このときに具体的な内容を見ることはできないのですが、その内容はおよおそ「灯里への感情」でしょう。どんな感情があったのかはわかりません。
 しかしその時の感情はなんとなく作品の中で想像することができます。それこそが貴樹が執着していた「灯里と過ごす時間への願望」ではないでしょうか。

 本来であれば、引っ越しもせずに同じ学校の中で居続けることができたのかもしれません。そうなっていれば、共通の時間を過ごし、初恋がそのまま成就することになったのではないか、そんなことを作中で貴樹も思ったでしょう。

 ここで悲しいことは、灯里との最後のキスがより強い縛りを貴樹に与えることになります。あの経験こそが、「自分は灯里にとって特別な存在である」と確信させる出来事になり、貴樹の大切な青春時代を縛り付けていた楔だったのかもしれません。

 本作を見た受け手は、主人公である貴樹に対してどのような感情を持つかは人それぞれです。
 しかしこれがフィクションではなく、貴樹の立場に、貴樹の年齢に、貴樹がどのようなプロセスを経て灯里へ会いに行ったかを考えると、彼の行動は「思春期特有の痛い行動」ではなく、「リアルに描写された貴樹という少年」に印象が変わるかもしれません。

【ネタバレあり】第五章:固執する男と忘却する女

1.決定的に描かれた男女の違い

 本作はしつこいほどに「初恋」に対しての捉え方を描いているのですが、少し踏み込んで考えると「男女の違い」を描いていると筆者は感じています。

 本作において代表的なキャラクターとなった「貴樹と灯里」は、言い換えれば「引きずる男と振り切る女」と捉える事もできます。
 いわば本作は、恋愛に対しての男女の違いをかなり生々しく、そしてリアリティを持って表現していると言えるでしょう。

 貴樹は灯里との思い出と、その恋が報われた後の未来に対して強く臨んでいるのに対して、灯里はというとそんなものは過去のものと言わんばかりに、すっかり貴樹との過去を忘れて新しい結婚相手を見つけています。

 結果的に見れば、上記のような見方になるのですが、恐ろしいほどに明確に描かれている本作の男女で全く異なる捉え方をしていることを明確に暗示しています。
 なぜなら、貴樹と灯里は決定づける「過去のキス」という行動を共有された記憶を持っているからです。貴樹にとってこの出来事は、将来まで彼を縛り付ける楔になっていたはずですが、どうやら灯里にとってそれは違ったようです。

 本作は意図的に「貴樹の視点」が中心になって物語が進行するのですが、それでは描写されていない灯里の視点に立って物語を少しだけ考えるとまた違った見方が出てきます。

 灯里は貴樹に対して、中学生の時点では明らかに特別な視点で見ています。これは自らが貴樹へとキスをしているため、これは明らかでしょう。大切な記憶としている「貴樹」と、思い出の一つとして捉えている「灯里」、捉え方が全く異なるということがこれで理解できると思います。

2.男女の「恋愛」への捉え方

 浮き彫りになった恋愛の捉え方ですが、一般論として「男性と女性では相手の選択基準が異なっている」とよく言われています。
 代表的には、「男性は外見で選択」し、「女性は社会的地位で選択する」というものです。特に男性が外見のことを特に重視していることについては統計的に明らかになっているそうで、「魅力的に感じる異性」の変遷などは、男性は年齢に比例せずに常に若い女性へ魅力を向けるそうです。

 これはあくまでも、「恋愛」に対しての捉え方であり、本作で取り扱っている初恋への執着とは少し異にしていると筆者は感じています。

  たしかに男性は、こと恋愛においては顔面至上主義的なところがありますが、その一方で男性は「マニア的な側面」があります。
 いわゆる特定のものへの固執に関しては、男性の方が執着する場合が多くあるかもしれません。オタク趣味的な物事の執着は女性よりもむしろ男性的であると考えることができます。

 本作における「初恋」というものは、「貴樹にとっての初恋」と「灯里にとっての初恋」でかなり捉え方が違うように描写されています。勿論灯里視点で物語が語られていないので、難しいところですが、貴樹の初恋の捉え方は間違いなく、一般的な恋愛のそれとは違う異質なものを感じます。

 それを示す出来事が二章にある花苗とのエピソードです。
 花苗は貴樹のことを恋愛的な意味合いで好いていました。叶えの好意に貴樹が気づいていたのかは不明ですが、明らかにその接し方は他の友人とは異なる態度であり、異性的な捉え方はしていたような描写があります。

 そもそも貴樹は、花苗以外とのクラスメイトとほとんど関わりが見られませんでした。まるで灯里以外の人間とは意図的に関わりを避けるような態度を見せていました。

 これをどのようにして解釈するべきでしょうか。
 貴樹は、灯里への初恋を大切にするあまり、他の人間関係を徹底的に排除してきました。その中で花苗という存在は特別なものであり、貴樹から積極的に話しかけている描写もあります。

 貴樹は「初恋」に対して、友人や恋人というものすら概念化する前に形成されていました。そのためか、「初恋の相手とそれ以外」というふうに人間を捉えていたのかもしれません。
 二章でのやり取りはまさにそれを表現、描写し続けていると言えるのでしょう。

 これは貴樹にとっては悲劇に繋がりました。貴樹にとって灯里との初恋は、「初めての人間関係」であったとも言えるわけです。
 これに固執した結果、あらゆる人間関係に対して希薄な態度を取ることになった貴樹は、結果として灯里との初恋も叶うことがなく、第三章にてありとあらゆる人間関係に対して打ち砕かれていくことになったわけです。

 対して灯里はというと、「恋としての初恋」というふうに捉えていたようで、それ以外の人間関係に対しても普遍的に振る舞っており、かつ初恋とそれ以降の恋愛を全く別物として捉えていた可能性があります。だからこそ灯里は、三章にて貴樹とは別の人間と付き合い、結婚することになったのだと筆者は考えました。

 このことから女性は、「恋愛に対して俯瞰的に考えている」と思います。直情的で固執的な男性と比べると、女性の恋というものは相対的であり、その弾性の現在の社会的な地位や状況に対して打算的な観念が存在すると考えることもできるかもしれません。

3.自己陶酔の男

 貴樹は初恋という人間関係に対して執着していましたが、これはある意味で「男性の精神的な成長」を垣間見る事になりました。

 本作における貴樹の印象は受け手によってかなり違ってくるところがありますが、恐らく多くの人はネガティブな印象を抱くことでしょう。
 特に同じ男性が、彼に対しての違和感やネガティブさを持つこともあるかもしれません。確かにこの作品は、貴樹の精神的な成長が見られない部分も多くあり、もどかしい気持ちを抱く人が多くいるはずです。

 特に第二章での貴樹の行動は世間的に言われている「中二病」的なところが顕著に見られるため、それに対して「恥ずかしさ」を抱かされます。
 これらのキャラクターに対しての羞恥心を「共感性羞恥」というふうに呼ばれるわけですが、それは精神的に未熟な子どもたちが大人になっていくプロセスの一つであると考えるのが近年では一般的です。

 しかしそれを差し引いても、貴樹はなかなか物語においてそのような痛々しさが顕著に描写されていると考えることができます。その理由として、本作は「男性の成長」をかなり偏って表現していると筆者は考えています。

 そもそも「男性」は、女性とは社会的に要求される役割が違います。男性は女性を守ることを常に要求されており、これは時代が変わっても同じでした。現代における「お金を稼いでくる」ということは、過去になれば「食料を確保する」ということに繋がってきます。
 そのため男性は、多くの場合で「単独で理想に近づこうとする」傾向が見られます。貴樹は特にこの傾向が強く表れているような印象を受けます。

 中二病を少し俯瞰的に考えると、「子どもから大人」になっていく途中の行動です。
 そこに痛々しさを感じるような、理想に近づく行動をするということは「理想的な姿に向かって努力している姿」と解釈することもできます。
 また、男性は「個体としての能力」を常に求められています。そのため、「理想」に近づくためには基本的に独りで成長することが常に求められています。だからこそ、男子の中二病というものはより痛々しく映るのかもしれません。

 確かに成長という言い方をすれば聞こえが良いかもしれませんが、男子の中二病というものは「自己陶酔」的なところが見て取れます。本作の主人公である貴樹もまさにその例に漏れず、「灯里とともに過ごしている自分」というものに酔っている貴樹が常に描写されています。

 このように丁寧な「男の自己陶酔」を描写しているのは、男性の成長プロセスを描写していると考える事ができます。
 自分のことに集中し、そのことのみを考えるということは成長をするということで、男性は大人になっていきます。それに対して本作の女性陣は、そのような描写はほとんどなく、他者との協調性や関係性を踏みながら成長していっている描写がされています。

 このような、男女の成長の差異というものも、この作品では描写しているのかもしれません。

【ネタバレあり】第六章:未来へ進む暗示

1.本作はバッドエンドか?

 本作は往々にして「バッドエンド」として扱われることが多くあります。確かにストーリーを書き連ねると「初恋に囚われていた主人公が大人になってもその恋を引きずっていて、最終的に報われることなくヒロインと決別を遂げる」という、到底幸福な要素が見られない作品ではあります。
 一方で筆者は、この作品がバッドエンドのみの暗い作品であるとは思っていません。

 なぜなら、本作にはラストシーンにて救いのあるような描写がなされています。
 大人になった貴樹は、同じく成長した灯里と踏切にてすれ違います。灯里はというと懐かしさに駆られて振り返ろうとしますが、結果として振り返ることはなくそのまま歩き去ってしまいます。一方の貴樹は、すれ違いに気が付き踏切を振り返るのですが、そこには電車が走り去る光景で向こう側が遮られ、最終的には誰もいない踏切の向こう側が映り、微笑みながら貴樹は立ち去ります。

 ラストシーンはこのようになっているのですが、筆者はこの作品が「バッドエンド」ではないと考える根源になっています。

 というのもこのラストシーンこそが、本作が描きたかった最も大きな要素になっていると思います。
 本作では散々「初恋の魔力」というものが表現されているのですが、このラストにて貴樹は初恋の悪夢から解き放たれたということになります。

 人によって、初恋というものはきれいな思い出にもなるし、地獄のような苦痛を伴う記憶にすらなります。貴樹にとってそれは「地獄のような苦痛」になっていたでしょう。誰のことも愛することが出来ず、ただただ過去の灯里との記憶を延々と引きずり続ける日々はまさに苦痛でしょう。

 人間は嫌な記憶こそ強く頭に染み付いているものです。それを消し去ることは基本的には出来ません。
 それを乗り越えるためには、「本人の中で納得させて落とし込む」ということが必要になってきます。更にはそれが、人によって違うということにも着目すると、「嫌な記憶を越えていく」ということを描写するのは難易度が高いものです。

 それをあえて初恋と対面させることで、納得させていくということは、恋というものにおいては「向き合わせる」ということが絶対的に必要になります。
 厄介なところで言うと、貴樹は常に灯里との初恋に対して向き合わせ続けています。だからこそ、本作では「あえて現実を見せる」という方法にて貴樹に初恋を向き合わせています。

 貴樹は今まで「自分の妄想と記憶の中での灯里との初恋」を考えていましたが、ラストシーンでは「現実の灯里」と部分的にとはいえ邂逅を果たしています。
 これこそが貴樹が初恋と向き合うこと、ひいては「現実と向き合うこと」に繋がったわけです。

 今までの貴樹は現実と妄想と明らかに違いを理解していながら「そんなことはありえない、なぜなら過去キスをしたんだ」という思い出が受け入れることを妨げていたと思われます。
 これを受け入れるために、貴樹は作品冒頭にあったような踏切で、プロローグを意識させるような描写の上で、誰もいない踏切へかすかな笑みを渡します。

 これこそが、貴樹が初恋という呪いを乗り越えて、新しい一歩を踏み出すことを明確に示唆していると筆者は考えました。

2.初恋の意味

 本作をすべて通した「初恋の意味」というものはどういうものでしょう?
 このレビューの中でも初恋には色々な意味を持って語っていましたが、最終的に本作で表現したかったものはなんだったのでしょう。

 筆者は本作における初恋を「影響を及ぼす記憶」であると考えています。貴樹の初恋は、最終的に振り切ることができたとはいえ、たくさんの時間と人間関係の経験を犠牲にしてしまいました。
 その一方で灯里にとって、貴樹との初恋の思い出は美しいまま懐かしいもので止まっていました。二人に共通しているのは「過去の出来事」ということと「その後の人生に影響を及ぼすものだった」ということのみです。問題はその記憶を、どのように解釈するかということであり、解釈によって二人にはこれだけの変化が生じたと考える事ができます。

 これはどういうことでしょうか。
 貴樹と灯里の違い、男女の違い、環境の違い、彼らは各々の違いを持っていながら、初恋にこれほどまでに振れ幅が生じたのが不思議で仕方がありません。

 初恋というものは「人生における最初の恋」であり、言い換えると「恋の成長過程の原点」ということも出来ます。また、「恋」というものは人間関係の形成において非常に重要な意味合いがあります。

 人はどうして人のことを好きになるか、そもそも友人や家族との違いは何なのか。それらを思春期という時間をかけて社会的に理解していく過程を、我々は貴樹という偏った視点から見ているわけです。
 そして実際に、本作のキャラクターたちは「大人」になって、それぞれの生活を過ごしていますが、そこでは各々の人生を過ごしています。そこは普遍的で、あまりにも日常的な現実が待っていたわけです。

 そもそも大人になるということは、「社会的に立ち位置を得ていき独立した生活をする」ということです。そのためには、社会的な人間の関わりや家族のような親密な関わりを持つ関係性を学び、その礎として「初恋」というものが土台になっていることが出来ます。

 問題はその「土台となる初恋」が、貴樹にとって「人生のすべてを捧げるほどの愛だった」という解釈をしてしまっていたということです。当然灯里にとっては、初恋というものは純粋な記憶のままでとどまり、世間的に言われているような幸せな人生を歩んでいます。

 同じ思い出のみでこれだけの違いが生じるという初恋の魔力、その根源的な正体は、「人間関係」というものを学んでいくプロセスにこそ原因があると考えることが出来ます。
 あらゆる人間との関わりは、その土台によって生じていきます。歪んでしまった人間関係の土台の結果が、貴樹が持っていた初恋の呪いであると言えます。

 人間における「関係性そのもの」の学びというものは、人生やものの視点の時点で歪んでしまうものになるのかもしれません。

3.振り切った過去と未来

 最終的にはすべてを振り切ることが出来た貴樹ですが、彼はこれから未来へ向かって進んでいくことができたのかもしれません。

 本作における唯一の好転的な出来事であったと言えますが、振り切った貴樹はこの後どこに行くのでしょうか。
 およそ、作品において一つのテーマ性を考えると、そこから先にある未来は「新しい好きな人ができる」ということです。

 人のことを好きになる、その現象は人間関係において最も重要性が高い事かもしれませんが、それは非常に難しい問題になります。
 そもそも恋愛関係ということは、友人という関係と何が違うのでしょうか。男女でしょうか?それとも過ごした時間でしょうか?あらゆる出来事が考えられるなかで、それを明確に言葉にするということは非常に難しいところがあります。

 貴樹は、作中において「灯里以外の人間とは本当の意味で好きになることはなかった」ということがしつこいほどに描写されていました。
 これは一体どういうことなのでしょうか?
 それは「初恋に縛られているから他の誰かを好きになることがない」と解釈することができるのですが、裏を返すと「一人の人間しか愛する事ができない」という解釈をすることもできます。貴樹も、灯里も、花苗もこれに則っているため、作品を通してこれは絶対的であると思われます。

 実際にこれは本当であるかはわかりませんが、少なくとも我々の社会の中で「誰かのことを愛する」ということは特定の一人であることを示していると考えることができます。

 貴樹は振り切った過去を置き去りにして、これから未来へ続くことになります。
 これは、「過去の恋愛は未来の恋愛によって塗り替えることができるのではないか」というメッセージとも取ることができます。

 人間にとって恋愛の心傷というものは非常に大きなものです。しかしそれは、最終的には新たな出会いによって、心に変化が生じることになります。
 本作は確かに初恋についてを焦点化した作品ではありますが、その裏側には、多くの人間が抱えるであろう「初恋の心傷からの立ち直り方」を、新海誠氏流で表現したものであるのかもしれません。


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