KAYOKO TAKAYANAGI|神林長平|『ぼくらは都市を愛していた』
生成都市、という概念がある。
それは都市が自立的に増殖するというイメージを想起させ、あたかも都市というものが一個の生物として存在しているかのような印象を抱かせる。
実際都市とは、人々の希望や欲望や絶望を飲み込んで果てしなく膨張し続けるものなのかもしれない。
日本SFの最前線を走り続ける神林長平の小説には、都市が印象的なかたちで描かれているものが多い。
タイトルからしてインパクトが強い『過負荷都市』、上空に浮かぶ浮遊制御体に監視された都市を妖魔と色彩が乱舞する『プリズム』、そして母と娘の相克が世界の崩壊を招く『オーバーロードの街』。
どの作品でも舞台となる都市は、登場人物の一員として強い存在感を放っている。
その中でも『ぼくらは都市を愛していた』は、東京という都市への追悼とも言うべき哀切さが深く心に残る作品である。
我々がよく知っている「東京」に生きる主人公の綾田カイムと、情報震で人類のデジタル文明が全て崩壊したあとの「トウキョウ」を索敵するもう一人の主人公綾田ミウ。この二人の独白が交互に語られる構成に、情報とはなにか、言葉とはなにかという、神林長平ならではの思索が絡み、都市の迷宮に絡め取られてゆく。
いや、ここに描かれているのはそんな幻想的な内容ではない。もっとリアルで熾烈な世界だ。神林長平が描くSFは常に、鏡面のように現実を映し出すとともに、その先の世界をも示唆している。それこそがSFというジャンルの面白さであり、神林作品が「先をゆく」所以なのである。
現実と信じていた世界が揺らぎ、記憶が交差して自分の存在さえ確かでなくなっても、愛しそして失った少女は都市に在り続ける。
独りでは生きられない人間が、独りで生きることを許す場所である都市。「都市とは〈人間が観念のみで生きることを可能にする装置〉」であり、千三百万の人人の意識を駆動させるシステムなのである。
「東京/トウキョウ」は一度喪われ、都市自身の意思により再びその姿を取り戻した。
異なる二つの現実が重なり合うとき、立ち現れるのは限りなく残酷で優しい都市の姿だ。
人人の感情を、思考を、言葉を取り込み、都市は駆動する。
喪われた想いや在りし日々の記憶は、かたちを変え都市によって受け継がれていく。
取り戻すことはできないが、忘れないでいることは可能だ。
それが、かつて存在した人人と都市に対する手向けであり餞けなのだから。
東京/トウキョウに、ひとひらの桜の花びらを。
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