短編小説を読む──芥川龍之介「羅生門」(6)
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羅生門
第二十六段落
下人は第四段落でも面皰を気にしていた。ここで「勿論、右の手では、赤く頬に膿を持った大きな面皰を気にしながら」とある。「勿論」というほどおなじみではない気もするが、考え事をするときには触る癖があるということなのだろうか。
さて、下人には「ある勇気」が生まれてしまう。老婆を捉えた時の「あらゆる悪」に対する憎悪からくる勇気と全然反対方向へ動こうとする勇気。
前段落で老婆は、悪でも許される場合があるという(意味の)話をしていた。具体的には餓死をしないために、蛇を魚と偽って売ったり、死骸から髪の毛を抜いたりするのは、本当は良くないが許される。でも、下人の心もちは「饑死などと云う事は、ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた」のだから、言ってみれば悪が許される「条件」というもの自体が無くなってしまう。
第二十七段落
面皰から手を話したので考え事が終わったようだ。でも、その前にもう念を押しているわけで、結論に対して思考の余韻のようなものを感じる。
「では」以降のセリフも面白い。さっき「考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた」「饑死」が出戻りしているかのようだが、危機感というよりは老婆に対する嘲り、嫌味として使っているだけのような感じがする。
あと、「饑死をする体」という表現。随分と直接的というか即物的な感じがある。餓死するのは身体であるということ。
第二十八段落
着物を剥ぎ取る、まさに追い剥ぎである。そういえば第二段落で人を「市女笠や揉烏帽子」と人に例えていた。着物を着るのは人間だけだ。それに、老婆は死骸から髪の毛を言ってみれば「剥いでいた」のだが、下人は老婆から服を剥ぎ取ったわけで、もう人間扱いをしてない。しかもこれは、別にしなくても良い行為だから、むしろ人間にのみ対する行為であるとも言える。
そして景気づけとばかりに、先程はゆっくりと登った梯子を、今回はダッシュ。「夜の底」というのがいい。もう真っ暗って感じがする。
第二十九段落
死骸の中に死んだように倒れているというのは笑えない冗談みたいだ。ここではもはや動物に例えられもしていない。
第三十段落
下人の行方。この一文はしかし少々不自然だ。もともと誰にも注目されていなかった下人ですから、誰も知らないのは当たり前だし、度々登場した「作者」は知っててもいいはずである。行方は場所というよりは、その後ということだろうか。でもこれも同じだ。では、或いはこの一連の出来事を経てどうなったか、ということだろうか。でも、恐らく盗人になったのは確実、というかすでに老婆から着物を盗んでいるわけで、作中ですでに盗人にはなっている。だから、「盗人になった」というジョブチェンジのことではなく、なにかほかのことについて言っているのかもしれない。