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今日という日に何が相応しいだろう

私はこれまで自分を蔑ろにしてきた方だと思う。ここで言う蔑ろとは、自分の好きや感覚に沿ってきてないということで、何が好きなのかの感覚がぼやけていることにより自分より他者を優先する傾向にある。
その反動が自分に返ってきた部分もあったし、返ってきてないところもある。返ってきてないどころか良かったと思うのは、わたしには特定の推しがいないことで色々な世界を知れたこと。推しがいたらどんなに楽しいだろうと思うことは多々ある。韓国のアイドルに現を抜かしている人たちをみて、嫉ましい気持ちが湧き上がってきたこともある。毎回ライブにいき、推しが共通の友達とは硬い絆が生まれるに決まってる。好きという気持ちのパワーは計り知れない。無敵感。うちわを振ったり、夢中になるってどんなに満たされるだろう。
わたしには推しがいない。全てを生半可に愛してるのかもしれないけれど、一つに強い思いがない分、誘われたら喜んでいく。芸人が組んだアイドルお笑いバンドグループのライブとか、ボカロとか、ラッパーとか、とにかく誘われて沢山ライブへ行ったし、自分では開くことのできなかった扉の先の景色をみることができた。潜りみたいな存在としての自分がコンプレックスの時もあったけどいまはまあ、いいじゃん。と思う。わたしは筋は通ってないけど色んなものを集めてそれがでっかい幹みたいになる途中にいるのだ。

蔑ろにしてしまうことでよくないことは必ず返ってきた。自分で選んでこなかったから、いざというときに選べない。なんでもいい、がしみつくと、わたしより他者を優先し、気がついた時には心より先に身体が震えていたりする。
嫌だと言えない代わりに身体が勝手に意識を遠のかせ、救急で病院へ運んでもらったこともある。蔑ろにすると、何かがちぐはぐになって解体されてバラバラになってゆくのだと知った。
それを経て、いざ自分の心や感覚に従おうとしてもはっきりつかめない。これはリハビリみたいに毎日何を今飲みたいか?から始めるしかないのだ。
けれどわたしは気がついた。昔からちゃんと自分の心に沿って考えていること。それは本を読む時だった。外出するときには必ずバックに本を忍ばせる。そのとき、わたしは必ず自分の心に問う。
今日という日に何が相応しいだろう、

行く場所に合わせて考えることもあれば、バスの中で読むところを想像するときもある。今日の気持ちのコンディション、様々なものを複合してぴったりフィットするものを選ぶ。この瞬間だけは、わたしはこれまでちゃんと譲らなかった。ひとり読書ツアーをしたこともある。例えば太宰の『斜陽』に合わせて行く場所を選ぶ、みたいなことだ。
今日という日に何が相応しいだろう、

推しで繋がるだけじゃない、好きがちがっても仲良くなれることはすごいと思うし、関係性は人とだけ積み上げてゆくものでもない。
好きなものがはっきりあって追いかけていける人に羨望はあるけれど、半分は本当にそう思っている。
でももしかしたら今日という日に何が相応しいだろう、を繰り返した先、わたしにも想像できない推しライフが待っているかもしれない。
うかれて、楽しくてたまらないかもしれない。
でもきっと陶酔した脳みそでも、その一部は昔のわたしを置き去りにしないだろう。

心の奥に届く文章を書きたいと思っています。応援していただけたら嬉しいです。