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【掌編小説】夜明けの合言葉

 僕が、その美しいバラの門の屋敷を訪れたのは、ある晴れた風の穏やかな日のことだった。
 空気と水が清浄なこの地は、体を病んだ人の療養地として有名で、薬の研究所や療養所、療養や保養のために建てられた別荘などが、豊かな自然の中に点在していた。
 今年から研究所の職員として勤めている僕は、一番下っ端なこともあって様々な雑用を言いつかることも多く、この訪問も、依頼された薬をお届けするよう言われてのものだった。

 僕が通された部屋には、ベッドに横になった14、5歳くらいの少女と、上品な身なりをした両親と思われる中年の男女がいた。
 僕が研究所の職員で依頼の薬を届けに来たことを告げると、表情を崩した男性はしきりとお礼の言葉を述べながら頭を下げ、女性も感謝の表情を浮かべてお礼を言いながら、僕から薬の瓶を受け取った。
 女性はベッドで横になっている少女に声をかけ、背中を支えながら体を起こすのを手伝うと、薬の瓶を手渡した。
 瓶の蓋を開け中の薬を飲み干した少女は、少し顔をしかめ、「ちょっと苦い」と訴えた。
 女性から口直しの水を受け取って飲む少女に、僕は、「ちょっと苦かったか。ごめんね」と微笑みながら謝る。
 少女はううんと首を振り、「少し楽になった気がする。ありがとう」と言って微笑んでみせた。
 屋敷を辞する僕を玄関まで送ってくれた女性の話では、幼い頃より重い病を抱えたあの少女は、近々根本的な治療のための術式を受けることが決まっており、今はその術式を前に少しでも体力をつけるための療養として、ここに滞在しているとのことだった。
 術式は、必ずしも成功するとは限らないらしい。成功率は6割から7割とのこと。
 成功する確率の方が高いのだし、成功すれば今後の人生においてこの病からは解放される、ということを考えれば、術式を受けるのは妥当な判断だ。
 それでも、失敗するかもしれない3割から4割のことを、少女は不安に思っているのだそうだ。
 確かにそうだろう。本来、絶対に成功すると保証されなければ、全く不安なく受けられるものではない。
 その6~7割の成功率が、今後上がることを期待するのは難しいらしい。
 それなら、と覚悟を決めたものの、やはり心が揺れる日々を送っている少女を、両親は日々見守り励ましているのだそうだ。
 僕は別れ際に思わず、「何か、僕にお手伝いできることはありませんか?」と尋ねていた。
 余計なことだったかと微かに後悔がよぎる僕に、女性は、「よかったらお暇な時にでも、あの子に会いに来て、話し相手になって頂けたらありがたいです」と嬉しそうに答えた。

 そんなことがあって、僕は時々、そのバラの門の屋敷を訪れた。
 会って話す内容は他愛もないものが多かったが、やがて少女は僕にも、術式を受けることへの不安を口にするようになった。
 「受けた方がいいってことはわかってるの。それでも、もし成功しなかったらと思うと、死ぬかもと思うと、怖くて……」と、つぶやくように少女は言った。
 僕は、「そうだね。怖くないわけないよね」と言って、少女の気持ちに寄り添う。
 「僕はさ……」と言葉を紡ぐ。
 「好きな言葉があるんだ。『決して明けない夜はない』っていう言葉と、『誰にも必ず朝は来る』っていう言葉。悩んだり落ち込んだりする時は、この言葉を自分に言い聞かせるんだ。そうすると、ちょっと元気が出て来る気がしてね」
 少女が小さく頷く。
 「だから、この言葉を君に贈るよ。心細くなったり、不安な気持ちになったら、この言葉を思い出して」
 少女の手を取り、その目を見つめて、僕が力づけるようにそう言うと、少女は震える声で、「私にも……朝は来るかな……?」と尋ねて涙をこぼした。
 「来るよ。きっと来る。僕は信じてるよ」
 そう答える僕に、嗚咽を堪え切れなくなった少女がしがみついて泣き出した。
 僕がそっと少女を抱き締めると、抑えたような泣き声が少し大きくなる。
 僕は少女が落ち着くまで、そうやって抱き締め、そっと背中を撫でていた。
 「ごめんなさい。お父さんとお母さんの前では、泣かないようにしてたんだけど……」
 やがて落ち着きを取り戻した少女が涙を拭きながら少し気恥しそうに言う言葉を、僕は「いいさ」と微笑んで受け止めた。
 むしろ両親に心配をかけまいと我慢している少女の心中を思い量った。
 僕は「いいかい?」と少女に声をかけ、「『決して……』?」と言葉の続きを促した。
 少女は「『明けない夜はない』」と続ける。
 僕は更に「『誰にも……』?」と促し、少女は「『必ず朝は来る』」と続け、僕に微笑んだ。
 僕は頷くと、「これからこの言葉が、僕らの合言葉さ。離れている時も、僕が君を応援している、っていう約束の言葉だ。忘れないで」と、少女に言った。
 少女は「ありがとう。忘れない」と言うと、また少し涙ぐみ、それでも僕に笑顔を見せた。

 それからしばらくして、少女は術式を受けるために、両親と共にこの地を離れて行った。
 更にしばらくして、研究所宛てに届いた手紙によると、少女の術式は成功したとのことだった。
 少女から僕に宛てられた手紙もあり、そこには一言、「私にも朝が来ました。頑張ったよ」と記されていた。
 僕は胸が熱くなるのを感じながら、「よかった……頑張ったね……」と、遠き地で不安と病苦を乗り越えた少女に、思いを馳せたのだった。

 そして、それから7年の歳月が流れた。
 当時は新米だった僕だが、あれからだいぶ経験を積み、見識を深めつつ、日々変わらず研究所での仕事に勤しんでいた。
 ある朝僕が研究所に出勤すると、研究所の門の前で立っている女性が見えた。
 誰だろう?
 研究所に用のある人だろうか? と思いながら近づく僕に、その女性は微笑みを浮かべ、すぐ近くまで来た僕に言ったのだ。「『決して明けない夜はない』」と。
 そして、「『誰にも』……?」と言って僕を見つめた。
 僕は「……『必ず朝は来る』」と続けると、「……君は、あの時の……!」と驚きの声を上げた。
 少女は大人の女性になった。
 しかし確かに、あの頃の面影は残っていた。
 すっかり健康になった様子の彼女は、あれから猛勉強を重ね、薬の知識を身に着け、研究所への就職が決まり、今日初出勤なのだという。
 「私も、誰かの力になれる仕事に就きたくて」と、晴れやかに言う彼女の顔を、祝福するように朝の光が照らしていた。





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