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おきなわの夏、洗骨の夏|Report

沖縄というか南西諸島の葬制って時代ごとの変差がかなり大きい。いまでこそ火葬に置き換わったが、それ以前はいわば風葬であり、しかも両墓制という葬送文化が一般的だった。そこには洗骨せんこつという段階があった。

戦後生まれでも幼少期に家族とともに洗骨を経験した記憶を持つ人がいる。けっして遠い過去ではない。

ガレッジセール・ゴリこと照屋年之監督による映画『洗骨』は、粟国島を舞台にした家族の物語。物語は、主人公の一家が母親の死を受け入れ、伝統的な洗骨の儀式を行うまでの過程を描いている。離れて暮らす子どもたちが島に戻り、親族や友人たちと再会しながら、家族の絆やそれぞれの抱える問題と向き合う。家族が再生し成長する姿が感動的に描かれている(そうだ。わたしは観ていないがぜひ!)。


風葬は遺体を直接自然の中に置き、自然の力によって遺体が分解されるのを待つ方法のこと。風葬のあと、骨が十分に風化すると洗骨の儀式が行われた。

古琉球の時代においては、居住地から離れた海岸近くや崖地などの大きな石灰岩のくぼみ・隙間に遺体を安置し、風雨、動物、昆虫によって分解されるのを待って白骨を回収し、埋葬した。高齢者の中にはヤドカリ(オカヤドカリ属)を嫌う人もいるが、風葬地にヤドカリが棲み、スカベンジャーの役割を担っていたことを知っているからである。

村墓、門中墓のような集団墓を設けるようになると、「骨を洗う」という行為がより重要になる。両墓制とはひとつの墓で二段階の埋葬を行うことを指している。一次埋葬(仮埋葬)用の墓と二次埋葬(本埋葬)用の墓がある。といっても現存する集団墓では、ほとんどの場合はひとつの墓の内部空間を分けることで対処している。

かつて墓内で遺体を安置した場所は「シルヒラシドゥクル」と呼ばれていた。汁を乾かす所という意味で、遺体から漏れ出る体液が尽き、肉がミイラ化してから洗骨を行った。直接的すぎる容赦ない命名だ。

しかし、それは理想論であって、近代化以降に人口が増えてくると、集団墓だと稼働率が高くなり、死後1~2年で洗骨するという事例もザラになった。

そうなると肉は朽ち果ててはいない。遺骨を取り出し削ぎ落とし、丁寧に洗浄しなければならない。昔は道具や衛生設備が整っていなかったので、手作業での洗浄はかなりの重労働だった。しかも多くは女性の役割だった。

特に近しい家族の遺骨を扱う場合、その感情的な負担は大きいものがあったと回顧されている。確かに、個人の感情なんて二の次的な、ほのかな暴力性を感じてしまうね。

なぜこんな面倒な手間をかけるのか?

死者は近親であっても生者に災いをもたらす。遺体を埋葬しただけでは危険な「死霊」であり、その状態を回避するために洗骨を行った。洗骨されると「祖霊」に昇華されると考える学説もある。

洗骨は次の死者が出たときに行われるが、しばらく死者がいなければ、七夕(旧暦7月7日)に行われた。その名残りからこの日に墓掃除をしているケースもある。暑いし、遺体の乾燥が進んでいない場合はさぞや臭ったことだろう。ちなみに墓掃除や墓の口を開ける作業は男性が担った(女性の大変さに比べると、申し訳程度のような気がする)。

日本の一部の地域には遺族が骨を噛む習俗があったと言われるが、かつての土葬では難しいだろうから、火葬化以降の比較的新しい伝統かもしれない。ちなみに沖縄では骨は噛まないが、骨汁は食べますよ(心配しないで。豚骨です)。

【出典】おきぐる-okinawa Guru guru

以上、織姫と彦星のロマンチックさとはほど遠い、かつての沖縄の七夕(2024年は新暦8月10日にあたる)の事情を書いてみた。

わたしは、粟国島で洗骨儀礼に出会ったことはないが、ずいぶんと前に山羊を潰している(下処理している)のを見かけたことはある。海岸で男衆が内蔵を取り出し洗っていた。厳密には食肉処理業などの免許が必要なのだろうが(持っていたかもしれない)、離島らしい自己責任のライフスタイルだと思った。国境離島を存続させるためには目をつぶるべき事案だよ。

PS. 似たような記事を過去にも書いていたのを思い出した。ご参考あれ。


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