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バナロ島(仮称)の一致しない姓・屋号・門中名#3|Field-note


Ⅱ型の事例

Ⅱ型は、非嫡出子であり、母方または母の嫁ぎ先で育てられたケースで、子の姓及び分家したときの屋号は養家に準じる。門中帰属に関しては、父親がわかっている場合は父系によるが、そうでない場合は非父系に組み込まれていた。

〈事例6〉安里門中タマイーの場合

タマイーの名の由来についてはおぼろげな伝承が残るのみである。かつて当家の祖先の一人が妻でない娘との間に庶子をもうけた/彼は母方タマイーで育てられ、成人後嫡子として実家に呼び戻された/それ以降その実家もタマイーで同定されるようになった、というものである。だが、母方とされるタマイー家がかつて存在したことを知る者はいない。

門中の宗家がその門中の名を冠していない、姓も改姓前は「多真栄」であった、という現象は今の門中理念に照らせば奇異なものと映るが、過去においてはそうでもなかったらしい。

〈事例7〉安里門中ナカアサトの場合

gは幼少のみぎりからユンチュで育てられ、分家時にそこから援助を受けたこともあって、設立した家はメーユンチュと呼ばれた。ナーザト家から妻hをめとり、その子男児iらをもうける。その後すぐにgは漁のため名護市辺野古に赴き、そこで再び妻子を持つ。

gが戻らないため、hは子を連れて生家ナーザトにて暮らすようになる。子iは結婚後メーユンチュに移るが、育ての恩があるため姓はしばらく「宮里」をとどめていた。戦後しばらくして、親族会議を開き、姓を「安里」に改めることにした。

gもその子iも門中帰属を変えることなく、生まれの門中に身を置き続けていた。ただし、養家との付き合いはあったようで、iの生存中はナーザトへの盆・正月の拝みは欠かさなかった。

〈事例8〉旧安里門中ヒャーグンヤーの場合

安里門中次男腹直系のjは、本妻以外の女性kとの間に男児lをもうけた。kが他家(ナーグシク)に嫁いだため、lは結局、母kの姉妺の嫁出先であるヒャーグン家で育てられ、そこから屋号を継承して分家した。彼とその子孫は安里門中の成員であることを辞退し、子孫はヒャーグンの本家――現在空屋敷――と位牌をあずかっている。

戦後「神村」に改姓したが、それ以前は「比屋根」姓であった。

〈事例9〉安里門中カマーイートゥクラの場合

〈事例8〉のlには腹違いの弟mがいた。mの母は私生児である彼を連れ、イートゥクラの次男nと結婚。nは分家してカマーイートゥクラを創立する(nの名がカマーであることから)。

けれども二人の間には子どもが生まれず、nの甥を養取するが若くして死去する。結局、他系だからという理由で分出させられていたmが継承者となる。mは当初からjの息子ということで「安里」姓を冠し、安里門中に属していた。

mはコザに移転するが、その後も津堅の人々からはカマーイートゥクラで分類された。元の屋敷には別人が居住しているが、こちらはカマーイートゥクラで呼ばれることはない。

〈事例10〉仲真次門中ピジャの場合

新設されたメーナカマシの長男oは、ピジャ家の未婚の娘pとの間に非嫡出子のqをもうけた。pはそのまま生家にとどまり未婚のままqを育てる。pには兄弟がいなかったため、成人したqが当家を継ぐことになった。

qは最初は比嘉門中だったが、後に血筋を重んじ仲真次門中へと編入された。これはoの息子らのうちqがもっとも出生が先だという理由から、oの位牌がqに譲られたことをきっかけとしている。しかし、姓「比嘉」と屋号ピジャはそのまま使用し続けている。

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