亡き王子のためのキューバ(前編)|Travelogue
博多のLIVEレストラン「Deja-vu」で出会った無名のインタビュアー桐子さんにうながされるまま、遠い旅の記憶を引きずり出して、noteに書き留めておこう。寒い風よありがとう! シクラメンズ(老舗のほう)ありがとう!
桐子:なぜ1994年のキューバに行こうと思ったんですか?
志村ま:アレです。ボートピープル=難民です。当時からトラックのタイヤチューブの浮き輪でマイアミに向けて漕ぎ出して、サメに食われるなんてニュースというか噂というかが流布していて、そんな思いまでして脱出したい国ってどんななの?と思っていたんです。フィデル・カストロの理想の行く末の社会主義国の日常を確かめたくなったんですね。
でもより直接的には、海外青年協力隊の帰路変更の渡航先にキューバが含まれていたからです。キューバには当時協力隊員派遣はなかったんですが、なぜか入っていました。
桐子:どんなところを回りましたか?
志村ま:そのときはハバナとマタンサスとバラデーロです。滞在日数はおぼえていませんが、せいぜい5~6泊とかだったんじゃないかな。バラデーロに行く途中にマタンサスという町があったんで、立ち寄ってみたって感じです。
桐子:ハバナの庶民の暮らしぶりは実際どうだったんですか?
志村ま:市街地では市民がなにかにつけ並んでいるのを目にしました。バスだったり食料の配給だったりです。当時は外国人はドルで支払うのが通例で、そのドルがキューバ・ペソと等価だったんですよね、観光市場では。つまりキューバ人が10ペソで食べている料理が、観光客は10ドル払わないと食べれないという仕組みでした。
為替レートはもうおぼえていないけど、10倍くらい払っているような感覚でした。並んで入ったレストランのまずい料理に10ドルってバカみたいだなと思って、観光客が行く店には行かないようにしました。
それで配給品のようなサンドイッチを並んで買ったりしてたんですが、これがパサパサでね。挟んであるのもハム一切れとか薄切りチーズだけとか粗末な味でした。だからかどうかわかりませんが、街なかで見る人はどことなく元気がないような印象を受けました。
桐子:そのとき宿泊はどうしたんですか?
志村ま:わりと高めのホテルに1泊はしてみました。キューバンバンドのリサイタル演奏があるクラスの老舗ホテルでしたが、客室は狭くて調度品も古びていてというおぼろげな記憶です。
1泊は、今でいう民泊をしました。街なかで話しかけられることが多くてね。ただ大体は観光客の財布目当てだったりするんですよ。ガイドしてやるよとかです。
そのひとつだと思うけど、「オレん家に泊まらないか」っていうのがありました。ペソ払いでいいって言うんで、まあ興味本位で付いて行きました。ただそれが本人の家ではなく、知り合いのおばあちゃんの家で、しかもなぜかガス臭いという…(笑)。そのプロパンガス臭さがすごく印象に残ってますね。
晩飯はそのアパートメントではなく、路地裏にある安食堂に連れていかれたなあ。味は…まずくはなかったんじゃないかな、入口以外は記憶にない。
桐子:ハバナらしいと感じた瞬間はありますか?
志村ま:やっぱり60年代のアメ車がずらりの道路交通事情ですよね。あの頃はそれ以外の車のほうが断然少なかった。あのデカさと古さは存在感がありましたね。タクシーもこのアメ車なんですけど、当然メーターはないわな。乗り合いだったと記憶してるね。
それからボデギータ・デル・メディオ。かのヘミングウェイが愛したというバーで、定番のモヒートを飲んだときかな。モヒートも世界中で市民権を得る前でね。
昼間に飲んだんだけど、そのあと日曜市みたいなところで、道端の絵描きから油絵を買ったんです。長らくトイレに飾っていましたよ。飲んだ勢いで買っちゃったところもあったね。
同じように、コッペリアでアイス食べたときもキューバっぽかったね。公園のキオスクで、家族連れが並んでいて、日差しがまぶしくて、というシチュエーションでした。でもどこでコッペリアのことを知ったんだろう? 『地球の歩き方』かな? そんなの持ってたっけ?
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