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ホワイトな学校へ#27 その14 付け足し ジョブローテーションで得たもの

私は、ジョブローテンションで行政の服務班というところに2年間勤務した。そこは、文字どおり服務事故を起した教員の事情聴取を行い、処分量定を決めるところ。同時に、服務事故防止の研修会等についても提案していた。

自分は、職場の選り好みはせず、どこでもそれなりに結構楽しくやっていける方だと思っていた。が、その服務班では、日々、服務事故を起した教員と話をしながら、なんで私はここでこんなことをしているのだろう、私の専門は書写・書道(このことについては、また別の機会に)なのに…とため息が出た。

しかし、今となってみれば、服務班にいた2年間は、校長として学校経営をする上で、とても役に立つ貴重な経験だったと思っている。
校長になってからは、私が服務班にいたことを知っている校長先生方から、よく相談を受けた。「法的根拠」という思考は、教員の最も弱い部分だ。服務班から管理職向けに、服務事故に関する参考資料などを提示してはいるが、それを見ただけでは、実際のところはわかりにくいと思う。よくお話をする校長先生の一人は、「校長任用前に、全員が一度は服務班で働くべきだ!」と言っていた。それほど、校長にとっては必要な経験則だと思う。

今、私が気持ちの上で楽にこの立場で仕事をしていられるのも、このジョブローテーションで様々な経験をさせてもらってきたからだと、ありがたく思っている。



ジョブローテーションの始まり A選考受験

私が管理職選考を受験した頃は、管理職選考が、A選考とB選考という制度になったばかりだった。A選考とはこれまでの指導主事選考にあたる。B選考は教頭選考にあたる。

当初は、A選考受験の年齢制限が41歳まで、B選考の受験資格は45歳から(たぶん)だった。

2人目の育休から復帰した年が39歳。その年、これまで1歳の誕生日までだった育休が3歳まで取れるようになった。

長期に休める最後のチャンス、育休を続けてとるかどうか、夫と相談した。
夫と年齢を比較して、これから長く働けるのは私である。
教員を続けるなら、管理職を目指した方がよい。(給料が少しでも高い方がいいから…というだけの理由)
管理職を目指すなら、今から受験できるA選考がよい。(4・5年のジョブローテーションはあるが、うまく行けばB選考より早く管理職になれるから…というだけの理由)
A選考を受けられるチャンスはあと2回。
当時、A選考は5倍ほどの倍率だったので、1回で受かるとは限らない。
だから来年、A選考を受験しよう!ということになった。(管理職を目指したのは、この程度の動機…すみません…)

私「合格すると、すごく忙しくなっちゃうと思うけど…」
夫「おれが、子育てと家事をやる!」
はい!記録されました。よろしくお願いします。

育休を延長してゆっくり休む⇒バリバリの管理職、真逆の選択…
下の子が2歳になる年、A選考を受験した。

受けるのであれば、1回で受かりたい(2年も勉強するのは嫌だ…)。毎日、子供を寝かしつけた後、夜9時からは勉強にあて、行き帰りの電車は暗記、面接のイメージトレーニング、など時間を決めて取り組んだ。

結果、合格。

ジョブローテーション人生始まる。


まさしくジョブローテーション

現在は、管理職へのなり手が少なく、A選考、B選考ともに倍率が低い。自治体の教育委員会としては、C選考だのB‘選考だの手を尽くしているが、受験者はなかなか増えない。校長選考だけは安定の5倍だが、管理職が魅力的な仕事だと感じてもらえるよう、それ以前に、教員という仕事を多くの優秀な人材に選んでもらえるよう、ホワイトな学校にしなければならないと改めて思う。

話はそれたが、当時のA選考のジョブローテーションは機能しており、うまくローテーションしていた。指導主事だけでなく、一般企業への出向など、様々な体験ができた。

中でも、私は、なぜか人一倍ローテーションした。校長になるまでの9年間で、7か所。

2年いたのは、合格してすぐ主幹教諭として異動したA地区の学校、そして、最初にお話した例の服務班である。

①    A地区の学校 主幹教諭2年間

当時はA選考に合格すると、すぐに異動しなければならなかった。そして、主幹という階級ができた最初の年だったので、私は、主幹としてこの学校に異動した。
生活指導主任を担当し、担任は持たずに、少人数指導担当だった。

この学校は毎年、研究協力校を引き受けていて、国語の習熟度別・少人数指導という新たな分野の開拓をするというのが私の使命だった。
担任の先生方に負担をかけたのでは他校での実施は望めないと思ったので、とにかく担任がやりやすいようなカリキュラムを考えた。
この学校では、先進的な取組を研究する代わりに、少人数加配が私の他にもう1名いた。当初は、私が国語、もう一人が算数を担当することになっていたが、そうすると、時間割が壊滅的にがんじがらめになってしまう。
それを解消するために、私が1,3,5年生の国語と算数を、もう一人が2,4,6年生の国語と算数を担当することにした。見た目の時間割上は大した違いはないように見えるが、各担任にとっては打ち合わせが半分ですむ。また、時間割りが、圧倒的に組みやすくなる。(時間割を組んだことがある方なら、理解してもらえると思う。)
※国語といっても、全時間入るわけでありません。研究の内容についても書きたいのですが、長くなるので割愛します…

新たな分野を開発するのは楽しかった。この研究については、新聞で取り上げられたこともあり、出版社から直接オファーがあって、管理職の許可のもと、自分の著書として出版できたことが一番大きかった。
このことは、私の今後に大きく関わることになるのだが、とにかく与えられたチャンスは何でも挑戦してみるものだと思った。


②   行政の学務部 担当係長1年間

ここでは、特別支援教育第1次推進計画のモデル事業の実施に関わった。この職についた時、私は、初めて推進計画という類の冊子を隅から隅まで読んだ。
推進計画に書かれているいくつかの事業について、自分で企画し、予算をとり、モデル校を選定し、実施する。
同僚で、私にいろいろとやり方を教えてくれていた本職のO係長に、私が新規に予算を獲得した事業が掲載された広報の欄を指しながら、「N=^_^=さんが、獲得した予算ですよ。よく頑張りましたね。」と言われたときは、嬉しかった。自分の考えが形になるってすごい。

この時、就学相談室という建物の管理も任され、電気代などの支払い、エレベーターの点検手続きなど、いわゆる学校事務が行うような仕事もやった。
最初は訳が分からず大変だったが、管理職になって、この経験が大いに生きた。学校の事務からの書類がよく理解でき、問題点にも気付くことができるのだ。
「若い頃の苦労は買ってでもしろ」まさしく、そのとおり(若くはなかったが(;^_^A)。


③    研修センター 指導主事1年間

A選考、B選考に係る管理職候補者、指導主事研修等全てを担当した。これも、とても役に立った。1年間、自分で運営しながら、全ての研修を受けたと同じこと。それぞれの研修の内容や講師の良し悪しもよくわかった。研修の計画、運営の方法についてもよくわかった。

そして、ちょうどこの年に、C選考が導入され、C選考の研修内容を企画するという仕事も担当させてもらった。自分の考えが採用されるって、意欲がわく。


④    S地区の学校 教頭(統廃合閉校)1年間→⑤ S地区の学校 教頭(新校開校)1年間

教頭1年めに配属された学校が、統廃合になる最後の1年だった。前任者が1年を残して去り、私に交代したのだ。

この時は、本当に大変だった。教頭の仕事はすべて初めて。それだけでなく、閉校の準備、新校の準備、新校舎の設計、3学期には、閉校式、修了式、卒業式をやり、引っ越しをして、4月6日に、開校式、始業式、入学式をやった。
今、思い返しても、この時期どうやって生きていたか思い出せない。

統合新校では、最初の半年、何をやってもいずれかの保護者から「前と違う。」と言われた。
しかし、2学期半ばの学芸会を境に、ぱったりと言われなくなった。子供たちが仲良く生き生きと演技をする様子を見て、子供たちは新たな環境を受け入れ、前に進んでいることを、保護者の皆さんにも分かってもらえたのだと思う。


⑥ 服務班 管理主事2年間

そして、次年度は、自分が設計に関わった、使いやすい職員室に引越しだ!と楽しみにしていた矢先、例の服務班に異動。

私、何か悪いことしましたか…

⑦ M地区の学校 教頭1年間

服務班にいる間に校長試験に合格し、任用前に1年間教頭としてここに配属された。地域の皆さんは親切だったし、先生方もよくまとまっていたが、私は、校長になるならA選考を受験したときに勤務していたE地区の学校がいいな、と心から思った。

そして、念願叶って、E地区の校長になることができ、私の放浪の旅は終了した。

付け足しが、長文ですみません。
自分のことを語り出すと、止まりません。

ここで言いたかったことは、すべての経験が、いつか、自分に生きるということ。どんどんチャレンジしてほしい。

私はこれらの経験のお陰で、学校で働けることのありがたみがわかるとともに、この先の道が開けたと思っています。
教員時代も楽しかったけれど、今の校長職が一番楽しいです!

次回は、その15 子連れで参加しよう~子育て中の先生方へ です=^_^=





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