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道の開き方 ~ストピデビュー~

あんな風に弾いてみたい。ストリートピアノを弾く番組があるとつい見入ってしまう。公共の場に置かれた、自由に弾けるピアノをストリートピアノ、略してストピと言う。いつの頃からか、ストピをサラッと弾ける人になりたい、と憧れを抱くようになっていた。

子どものとき、練習が嫌でピアノをやめた。そのことが何十年も引っかかっていた。やっぱり、もう一度やりたい。諦めきれぬ思いが飽和に達し、一昨年春から、大人のピアノ教室に通っている。そして、昨年春は、新しいことにチャレンジしようと、クラシックからポップスに転向した。

音階はドレミではなくABC。コードのコの字も知らない初心者となり、文字通りABCから教わる。理論についての説明は、悲しいかな、右から左に抜けてしまう。体で覚えるしかない。水泳で息継ぎを練習するように、手が覚えるまで繰り返す。

良い師と仲間に恵まれた。グループレッスンの生徒は3人。同い年のバリキャリと、エリート商社マンのT氏。彼は、若い時分にバンドでキーボードを演奏していた経験がある。一番の経験者だが、三人三様、それぞれに苦労している。昨年末にはミニ発表会をやった。

レッスンが終わると、3人で駅に向かう。エスカレーターを降りながら、交差点を渡りながら、地下道を歩きながら。改札を通って別れるまで、ずっと話をしている。この前はこんな会話をした。

「ストリートピアノを弾きたいと思ってるんですけど、弾いたことあります?」とT氏に尋ねる。
「ありますよ、人のいない時でしたけど」
「あれって、暗譜せなあかんのですよね。全然覚えられへんのですけど、なんかコツってあります?」
「若いときはすぐに覚えられましたけど、だんだん容量が減ってきて、しんどいですよね。ボクはコードも一緒に覚えちゃいます。ルートの音さえ合ってたら、多少のミスは気にならないんですよ。去年の発表会も、実は相当間違ってたんですけどね」
「A, D, G, Cって感じですか?なるほど!」

ストピの壁は暗譜。こればかりは勇気や度胸といった精神論では越えられそうにない。だが、T氏と話したことで、一歩夢に近づいた。イントロ、Aメロ、Bメロ。短く区切り、英単語を暗記するように、繰り返す。空き容量は減ったが、熱量は増している。弾きたいという「思い」があれば克服できる気がしてきた。

いよいよ明日はデビューの日。それなのに包丁で指を切った。左手の人差し指。絆創膏を巻いた指では思うように弾けない。そうだ、上手く弾けないのをケガのせいにすればいい。だからうる覚えでも良いのだ。開き直る言い訳を得、怪我を功名とした。

平日の午後2時半、用事を済ませ、渋谷マークシティに立ち寄った。見覚えのあるピアノを発見。トレンチコートを着た年配女性が、楽譜を広げて弾いている。「楽譜、見てもいいんだ」などと思いつつ近寄った。ピアノには「おひとり様10分まで」と貼ってある。こちらに気づくと、さっと楽譜を仕舞い、席を立った。追い立てたかのようで、恐縮する。どうぞどうぞと譲り合う。「初めてなんで」と遠慮すると、「大丈夫ですよ、誰も聞いてませんから」と返してくれた。「スミマセン。すぐに終わりますから」と続けると、「買い物の途中なんで」と言って、立ち去った。

着席し、スマホの時計アプリを立ち上げ、タイマーを10分にセット。譜面台に置いてスタートボタンをタップする。曲は、一昨日のレッスンで完成させた、カーペンターズの「雨の日と月曜日は」。ミソソソソソファソミ~♪ボロボロだったが、全然気にならなかった。なぜなら、ピアノの音よりもフードコートから聞こえるノイズの方が大きかったから。後ろを人が通っても、何とも思わない。それよりも生ピアノの気持ちよさに心酔した。鍵盤のタッチや、澄んだ音が、自宅の電子ピアノとも、教室のそれとも違う。楽譜を思い出しながら、指を運ぶ。つっかえつっかえ、曲を進める。詰まったら、最初に戻る。そうこうしているうちに、スマホが震え、我に返った。今日はこれで十分。また来よう。

前の女性が楽譜を広げていたこと、誰も聞いていないと言ってくれたこと、指をケガしたこと。いろんなことが、ハードルを下げ、背中を押してくれた。念願のストピデビューを果たした。それだけなのに、世界を征服したかのような嬉しさに包まれた。

これからは、旅先でストピを見たら、臆せず座ろう。下手でも、まったく構わない。自分の世界に入れば、周囲なんて気にならない。弾きたいから弾く、で良いのだ。ピアノは人を選ばない。上手い人が弾けば、素直に称え、そうでない人には、エールを送る。みんな仲良く、譲り合う。上手も下手も平等なのがストピの良さではないか。さらりと弾けるよう、もっと練習しよう。そらで弾ける曲を増やそう。

そして、憧れは人に話す。怪我は功名に変える。暗譜より勇気。ストピデビューは、心を開けば道が開くことを学ぶ体験となった。

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