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特に財政政策は不満タラタラ──『資本主義と自由』読書感想文

本書の解説で、東洋大学教授の高橋洋一氏はこのように書いている。

本書を読んでいた一九六二年に出版された本であることを忘れてしまい、今の経済問題を論じているかのような錯覚に陥った。

「解説」より

自由主義を軸として政治・経済の政策への提言がなされる本書。今ではもはや常識のようになっている内容もあるので、上記のように「書かれた時代を踏まえて」読む必要がある本だ。

ケインズの理論への批判が根本にあるという。私はケインズの理論を良く知らないのだが、そんな私でももうちょっとお手柔らかに……と感じてしまうほど徹底した自由主義支持の立場から、過去・現行の政策を批判し、市場に対し政府が介入すべきところ、してはならないところの線引きをする。70年以上たった今であっても「え、そこまで?」と思ってしまう部分もあるのだから、当時は超尖っていたのだろう。

少し長くなるが、序文にこの本の主張の根っこを端的に表すような文章があるので引用する。

文明の偉大な進歩が権力を一手に握る政府の下で生まれたことは、未だかつてない。建築も絵画も、科学も文学も、工業も農業も、そうである。コロンブスは、専制君主からいくらか資金援助を受けはしたが、議会に命じられて新航路を探しに行ったわけではない。ニュートン、ライプニッツしかり、アインシュタインしかり、そしてボーア、シェークスピア、ミルトン、パステルナーク、ホイットニー、マコーミック、エジソン、フォード、ジェーン・アダムス、ナイチンゲール、シュバイツァー⋯。知の新しい地平を切り拓き、文学の新しい境地、技術の新たな可能性を開拓し、あるいは苦しむ人々を救ったこの偉人たちの中で、政府に命令されたという人は一人もいない。偉大な業績を生み出したのは個人の才能であり、大勢に逆らって貫き通された不屈の意志であり、そして個性や多様性に寛容な社会であった。
多種多様な個人の行動は、政府にはけっして真似できない。衣食住に画一的な基準を設け四民の大多数の生活水準を引き上げることなら、いつでもできるだろう。教育、主に画一的な基準を設けて多くの地域の改善を実現することも、可能だろう。全体の平均を押し上げることも、不可能ではないかもしれない。だがそのうちいつの間にか、政府は進歩より現状維持を、多様性より可もなく不可もない均質性を選ぶようになるだろう。

「序文」より

思わず「なるほどな」と思ってしまう。
この思想をベースに、金融、財政、教育、市場独占、職業免許制度、所得分配、福祉、貧困などの政策に著者ミルトン・フリードマンが切り込んでいくのが本書の内容だ。

以下、本書の特徴的な主張だと感じた部分と、自分が興味を持った部分を取り上げる。


市場主体の活動を最大化する

「すべての場合に適応できるということではないが、なるべく市場で行われる範囲の活動を増やしていくべきである」というのが、各政策への提言の根本をなす主張だ(政府の役割を完全否定している訳ではないところもポイントだと思う)。

法と秩序を維持する、財産権を明確に定める、財産権を含む経済のルールを修正できるようにする。ルールの解釈を巡る紛争を仲裁する、契約が確実に履行される環境を整える、競争を促す道貨制度の枠組みを用意する、技術的独占に歯止めをかける、政府の介入が妥当と広く認められるほど重大な外部効果に対処する、狂人や子供など責任能力のない者を慈善事業や家族に代わって保護する──これだけのことをしてきた政府は、明らかに今後も重要な役割を果たすべきだと考えられる。筋の通った自由主義者は、けっして無政府主義者ではない。
とは言え政府の役割には、はっきりと制限を設けるべきだ。現在アメリカで連邦政府や州政府が行っている事業、あるいは先進各国の政府が手がけている事業の多くは、やめるべきである。

第2章 自由社会における政府の役割「結論」

金融政策に関する政府の介入は余計なお世話

経済の安定のためにも成長のためにもいま必要なのは、政府の介入を減らすことであって、断じて増やすことではない。介入を減らしたとしても、経済に関して政府には重要な役割がまだ残っている。自由経済のために安定した通貨の枠組みを用意することだ。この仕事は、法と秩序を維持するという政府の役割の一部であるから、政府を活用するのが望ましい。個人が望めば経済活動に貢献するような法律と経済の枠組みを用意することも、政府の役割とするのがよいだろう。

第3章 国内の金融政策

世界恐慌などを例に取り、国内金融政策においても、国際金融政策においても、政府の介入(もしくは政府が金融政策に対し多くの権限を握ること自体)が事態を悪化させたと著者は述べる。
例えば、世界恐慌の際の連邦準備制度の態度について。

一九二九年一〇月二四日木曜日に始まった株式市場の大暴落は、前年からこの年にかけて続いていた上げ相場にとどめを刺した。暴落があまりにも衝撃的だったためか、これが大恐慌の引き金になったと言われることが多い。それどころか、主因にまでされがちである。だがどちらも正しくない。景気が天井を打ったのは一九二九年半ばで、暴落より数カ月も前である。
天井を打つのが早かったのは、株の「投機」を防ごうとして連邦準備理事会が金融をかなり引き締めたからとも考えられるので、株式市場は間接的ながら景気収縮のきっかけをつくったとは言えるだろう。また、株価の暴落が企業の景気信頼感と個人の消費意欲に作用し、景気動向に悪影響をおよぼしたことはたしかだ。だがそれだけでは、経済活動に破壊的な打撃を与えるにはいたらなかっただろう。アメリカでは経済成長を中断させる緩やかな景気後退期が何度かあったが、それが多少長く深刻になった程度の景気収縮で済んでいたと見込まれる。まちがっても、あのような災厄にはならなかったはずだ。

第3章 国内の金融政策「金融当局の裁量権」

著者は、見えていた崩壊の兆候に対し、連邦準備制度は全てを「傍観した」ことが主要原因であると述べた上で、このように締める。

通貨は中央銀行に任せておくには重大すぎる

第3章 国内の金融政策「金融当局の裁量権」

「経済活性化のための公共投資」は正しいのか

ニューディール政策がとられて以来、連邦政府は公共事業を拡大するたびに、失業を減らすためには政府が金を出すしかないのだと言い続けている。ただし、理由付けは長い間にだいぶ変わってきた。最初は「呼び水」として公共投資が必要だとされた。どりあえず政府が予算を投じれば経済を活性化できるから、そうなったら手を引けばよいというのである。
しかしこれで失業を減らすことはできず、一九三七〜三八年には景気が急速に冷え込む。すると今度は「長期停滞論」なるものが浮上し、政府が恒常的に多額の公共投資をすることが正当化された。長期停滞論によると、経済は成熟期に入ったのだという。
〜 中略 〜
最近では、呼び水としてでも長期停滞を防ぐためでもなくて、総支出を安定させるためだという理由付けがされるようになった。何かのきっかけで民間支出が落ち込んだら、政府が支出を増やす。逆に民間支出が増えたら政府は手控えるという具合にして、総支出ひいては経済の安定化を図るべきだという。

第5章 財政政策

このとめどない公共投資を行う「財政政策」への批判。皮肉が効いた文章が並び、著者の憤りというか……気合いが特に入っていそうな感じがする章だった。

政府支出は今や経済全体の中で大きな割合を占めているため、連邦政府が景気に重大な影響をおよぼすことは避けられない。したがってまずは赤字の垂れ流しを止め、支出をほどほどに安定させる措置を講ずるべきだ。

第5章 財政政策

毎年なぜか大赤字な国の財政に同じこと言ってやりたい。
何もしなければ無策と責められるからといって、行き当たりばったりは本当にやめてほしい。
──という私感はいったん置いておいて、フリードマンは、政府の財政管理の望ましい態度について「国民が民間より政府を活用したがっているのはどんなことかだけを考えれば良い。そして政府支出や税率の大幅な変動を避けるよう心がけること」という。

多くの経済学者が税収以上に歳出を増やせば、不足分を借金でまかなっても、すなわち通貨供給量が増えない場合でも、必ず景気を刺激するという説を支持している。

第5章 財政政策

この理論の土台になっているのがケインズの理論。しかしその判断は経験則などからの直感的なものに過ぎず、十分なデータに基づいているとはいえないとフリードマンは述べる。
政府支出の拡大で確かに影響は起きる。しかしフリードマンの調査の結果からすると、それは景気向上の動きではなく、ただ付随して起こった名目所得の増加、物価高とそれによる実質ベースでの民間支出の減少だという。そして、逆の手を打てば逆のことが起こる。
実質は何も変わらない。
なのに政府が経済活動や生活に大規模に介入することが支持されるのはなぜだと、この章は不満タラタラな感じで締められる。

教育の平等を担保する制度

教育における本当の平等とはなんなのか。そして、社会全体に利益が還元されると考えられる「教育の質」自体も向上させるためにはどうすれば良いのか。
フリードマンはその回答として、バウチャー制度を提案している。
しかし保守的な風向きが特に強そうな教育現場に向けては超きつそうな提案だし、いろいろ付随して考えることや整えることが多そう。そのあたりのすり合わせが難しいから結局子育て系の施策は短絡的な「ばら蒔き」になっちゃうんだろうなあ。。。

政府は大体において、教育機関の運営コストを直接支払うという形で学校教育に出資している。そして、金を出すとなれば口も手も出すのが当然だと考えているらしい。だが両者は簡単に切り離せるはずだ。政府は最低限の学校教育を義務づけたうえで、子供一人当たりの年間教育費に相当する利用券、すなわち教育バウチャーを両親に支給する。この教育バウチャーは、公立私立を問わず政府が「認定」した教育機関で使用することを条件とし、子供をそうした認定校に入学させバウチャーを提出それに対して政府が券面額を払う仕組みである。

第6章 教育における政府の役割「基礎教育」

企業のたった一つの責任

企業の社会的責任とは、「ひたすらに事業活動に専念し、利益を追求することである」とするこの説も、企業がESGやSDGsの目標をこぞって立てている現代においてとても面白い。

事業活動に専念することだ。これが、企業に課されたただ一つの社会的責任である。同じように組合幹部の社会的責任は、組合員の利益を追求することである。そして私たちの責任は、アダム・スミスの言葉を借りるなら、自分の利益を追求する個人が「見えざる手に導かれて、自分では考えてもいなかった目的へと向かう」ような法的枠組みを整えることである。この一文に続いてアダム・スミスは、「各人がこの目的を全然考えていないのは、社会にとって必ずしも悪いことではない。自分の利益を追求する方が、社会のためを考えた場合よりも、結果的に社会の利益を高めることが多いからだ。社会のためによかれと考えて事業をする人が実際に社会に多大な貢献をした話は聞いたことがない」と書いている。
企業経営者の使命は株主利益の最大化であり、それ以外の社会的責任を引き受ける傾向が強まることほど、自由社会にとって危険なことはない。これは、自由社会の土台を根底から揺るがす現象であり、社会的責任は自由を破壊するものである。株主の利益を最大化すること以外の社会的責任が仮に経営者にあるとして、それは何なのか。

第8章 独占と社会的責任「企業と労働組合の社会的責任」

資本主義は悪いのか

本書の結論にある文章を見ると、一連の主張は「資本主義は人を幸福にしない。だから政治がより統制を強めるべき」という教養人を中心とした論調に対抗する論であったのかなと思う。
背景には下記で述べられているように、共産主義の勢力拡大があった。

一九二〇年代、三〇年代にアメリカの知識人の圧倒的多数は、資本主義には欠陥があると考えるようになっていた。資本主義は人を幸福にしない。ひいては自由を妨げる。だから将来は、政治がもっと積極的に経済をコントロールすることに希望を託すしかないという。こうした変節は、ロシアで共産主義体制が確立され大いに希望が膨らみつつあったことと無関係ではないものの、実際の成功例に裏付けられていたわけではない。知識人がこぞって改宗したのは、不正がはびこり欠点ばかり目につく資本主義社会の現状と、希望的観測を込めた共産主義社会の姿とを比べたからだ。現実と理想を比較したのである。

第13章 結論

だから共産主義の“失敗”を経て、再び時代の注目が経済へと向いた80年代以降、このフリードマンの説は社会に「民営化・規制緩和」という大きな影響を及ぼした。日本でも、民営化、金融自由化、などの政策が実施されている。

以上の(政府の施策介入による)収支決算をしてみると、大赤字であることは火を見るより明らかだ。ここ数十年間に政府が乗り出した新事業の大半は、ことごとく目標達成に失敗している。なるほどアメリカは進歩を続けてきた。衣食住は改善され、交通も便利になった。階級や社会的な格差は減ってきたし、少数民族が不利な扱いを受けることも少なくなってきた。また大衆文化が爆発的発展を遂げた。しかしこれらはすべて、自由市場を通じて展開された個人の創意工夫や意欲の果実であって、政府の施策はすこしも貢献しておらず、ただ邪魔しただけである。その邪魔を乗り越えられたのは、市場には新しいものを生み出す途方もない力が備わっているからだ。見えざる手が進歩をもたらす力は、見える手が退歩をもたらす力に勝ったのである。

第13章 結論

資本主義経済中心の社会が悪いのではない。そこに中途半端に政治が介入している状況が良くないのだ。と。そして市場メカニズムを経済活動が最大限自由に振る舞えるようにすることが、経済を活性化させることにつながると。その一貫した主張が「強いなあ」と感じた本だった。
で、それを受け入れる・受け入れないは、時代と状況が左右している。

そして、これはフリードマン自身も随所でふんわり述べているが、要は適時適用することが必要で、提案している策にしても今考えられる範囲での最善策でしかないということ。
どの時代の、どのような状況にも通用し、全方位をフォローできるような仕組みを生み出せるわけがないということを忘れてはいけない。

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