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【嗚呼! 偏愛のグループサウンズ】その1 ムスタング

 ムスタングというバンドは”グループ・サウンズ”という名で総称される1960年代中後期の日本のロックシーンを好んで聴く人間が、かなり初期の段階でぶち当たる一つの快楽である。彼らの強烈な2曲、『ゲルピン・ロック』と『ムスタング・ベイビー』はおそらく当時よりも後世の方が好んで聴かれた楽曲だろう。それ程にまでこの2曲はあちこちのコンピレーションCDに入っている。

 1968年5月号の『ミュージック・ライフ』誌は、ページの半分を割いてデビューしたばかりのムスタングを写真付きで紹介している。記事は、「粗野に走りすぎたため、もう一つ円熟味に欠けるところがある」とする一方で、「歌謡曲や和製ポップスのフィーリングは持っておらず」とまとめている。つまり、ムスタングはその名の通り、デビュー時点で粗野かつ豪放なガレージ・バンドと目されていたと言っていい。そんな先入観を裏切らず、彼らムスタングは6人のメンバー全員が肩にかかる程の長髪にアズキ色のミリタリー・ルックという、当時としても相当奇抜なルックスをしている。これは、ユニフォームを揃えるなら綺麗にしてかわいい、もしくは清潔感で統一するという当時の日本のバンドの鉄則を大きく踏み外している。恐らくだがムスタングのファッションは、メンバーの一人がアメリカのザ・バーズのロジャー・マッギンと同じ型のサングラスをしていることから推測するに、ヒッピー文化を意識している。ハッキリ言って、異形である。一方で期待もされていたのだろう。キング・レコードが新設したロンドン・レーベルの一号タレントとなり、ミック・ジャガーと電話対談をし、川崎のぼるのマンガ(以前、某所で原画を見たが長髪の星飛雄馬みたいなアンちゃんがドラムを叩いていた)のタイトルに引用されるというなんだかよく分からないがえらく素晴らしい扱いを受けている。

 そして、『ゲルピン・ロック』はそんな期待を裏切らない超弩級のガレージ・ロックなのである。ファズ・トーン一発で始まるギターに躁状態で絡みついていくオルガン、そこに「無思想」という素晴らしい思想を持った軽薄なボーカルが多い被さっていく。聴いてるうちに、ああ、完璧なノベルティ風味のロックだなあ、となんとなく感じ始める。決して演奏は巧くはないが、とにかくリスナーをノセることに関しては申し分ない演奏が3分半に渡って繰り広げられるのだ。『ムスタング・ベイビー』も奇妙な浮遊感が漂うサイケデリックな曲であり、ダンス・フロアの中休みのひと時のような錯覚を感じてしまう。

 だが、結果として『ゲルピン・ロック』、そして『ムスタング・ベイビー』は彼らのデビュー・シングルにしてラスト・シングルとなった。売れなかったのだ。当時は、大いに期待されたバンドでも1枚目が不発だったら2枚目に続かないというパターンが往々にしてあった。彼らもその例に漏れなかったのだろうか? テリーズを差し置いてロンドン・レーベルの日本人第1号のバンドとなったにもかかわらず?

 ムスタングがその楽曲の強烈さの一方で長年にわたって謎のバンドとされていた要因はそこにある。だが最近、この曲を改めて流している時にふと、『ゲルピン・ロック』のコーラスが途中から裏声で自前のSE(それは飛行機であり、自動車である)を始めた瞬間、謎が氷解したのだ。彼らは、笑わせにかかっているのではないか。そんな予感が確信に変わったのは、歌詞の一節に「世界は僕らを待っている」と、当時人気絶頂だったザ・タイガースの主演映画のタイトルをふざけて埋め込んでいることに気づいた時だった。そこが分かってしまうと、結論は簡単なことだった。


 ムスタングはおそらく、当時のアングラ・ブームを当て込んだ企画モノのシングルのために拾い上げられたインディーズ・バンドだと。


 1968年の春という時期には前年から大ヒットしていたザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)の『帰ってきたヨッパライ』に端を発するいわゆる「アングラ・レコード」のブームが巻き起こっていた。当時、トリプル・ミリオンを出荷したという『帰ってきたヨッパライ』の権威というものは物凄く、この年の夏頃まで、ほぼほぼ全てのレコード会社がこの曲の二番煎じ、三番煎じを狙っていた。もっとも、これは一過性のブームであり、ビクターのザ・ジャイアンツとコロムビアのザ・ダーツが『ケメ子の唄』を競作して共にオリコンのトップ10に送り込んだ以外にこれといったヒットは出なかった。が、とにかく、若いバンドがコミック・ソングを吹き込むことが是とされた半年というものは日本の歌謡史の中に確かにあったのである。

 ここでいう「アングラ」はアンダーグラウンドの略。正当な音楽史的にはヴェルヴェット・アンダーグラウンドあたりを想起するのがいいんだろうけれども、日本の場合は羊頭狗肉、なぜかレコードの再生速度をいじくったムシ声ボーカルとか、薄いファズをかけた妙なコミックソングとなる。そして、大抵がモテない、大学受からない、金がないの「3ない」をテーマとした歌詞をあてがわれていた。これは単に、今でいうインディーズからデビューするという前例のない形でメガ・ヒットを飛ばしたフォークルの楽曲がたまたまコミック・ソングだったせいで、「インディーズ(アンダーグラウンド)=変な爆笑コミックソング」という認識が各レコード会社に植え付けられてしまったためだだろう。そして、この認識はフォークルが『イムジン河』の発売中止を経て『悲しくてやりきれない』という笑いを排した大名曲をリリースしてもなお、続いていた。

 ムスタングに戻る。彼らはロジャー・マッギン型のサングラスで分かるように、ヒッピー文化を志向していたと思わしき部分がある。この型のサングラスはデビュー当初のモップスも好んで装着しており、当時の日本ではヒッピー文化=あの小さいサングラスということに落ち着いていたと考えても異論はないだろう。

 だが、日本にはヒッピー文化というものは精神的な部分では根付かなかった。この国でのそれは、1967年夏から68年初頭にかけて新宿駅西口を中心にたむろしていたフーテン族というものになってしまう。フーテン族は戦後初めて出現した、国が富みつづけることに確信を持った人種でもあった。ベトナム戦争に対する反動から髪を伸ばした本家のヒッピーと違い、フーテン族は単にヒッピーのファッションのみを真似し、高度経済成長のオコボレでコーラの一本でも飲めたら上等、といった価値観から終に脱け出さない人種だった。だから、彼らは1968年をもって消え失せてしまった。日本の青年層でも哀しいことに次の年の1969年は政治の季節となってしまったから。

『ゲルピン・ロック』の強烈さはそこにあった。その一瞬の間隙を衝いた。ムスタングの歌詞世界はフーテン族の「コーラが飲めたら上等」という価値観から一歩もはみ出さない。時代は切り取られていた。キング・レコードのプロデューサーは恐らくだが、隆盛を極めつつあった(と考えていた)アングラ・レコードの分野に「ヒッピー=フーテン族」からのアプローチを試みたのだ。

 『ゲルピン』という言葉は、教養の一つにドイツ語が存在した戦前の旧制高校生達の風俗から流れてきた俗語である。だからハッキシ言って、1968年には徐々に死語となりつつあった言葉だ。そんな前時代の言葉を「~ロック」という、美空ひばりの『ロカビリー剣法』以来の安直な名付け方で持ってくるセンスは、恐らくはメンバー達のものではあるまい。しかし、当時としても古色蒼然とした言葉に「ロック」を付けて、ギャップのあるタイトルから笑わせにかかるコミック・ソングと考えたらどうだろうか。商業的には成功しなかったがアングラ・レコードのアプローチとしては悪くないということにならないだろうか。

 ともあれ、ムスタングはこの一枚で消えた。何故2枚目が出なかったのかといえば、単に企画モノのシングルの契約が終わったからに過ぎないのだろう。だが、彼らは「昭和元禄」と称される社会が躁状態だった時の浮かれ騒ぎの断片を後世にまで伝えてくれるのだ。あなたが現代史を学んでいる際、”高度経済成長期とは何ぞや?”と思った時、ムスタングを聴けばいい。そこには、政治色が排された浮かれた世界がある。彼らはたった2曲のレコーディングで、当時という時代を鋭く切り取り、未だにこちらを楽しませてくれるのである。


 時は流れて1969年の半ば、学園紛争の最中の京都大学西部講堂で行われたロック・コンサートの出演者リストの中には、ムスタングというグループがいる。暗い学生運動のメッカの中で、殺気立った学生達の中で、演奏を繰り広げていたのがあのムスタングなら、彼らは何を唄ったのだろうか。


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