アナログ派の愉しみ/映画◎周防正行 監督『それでもボクはやってない』

「痴漢」が暴きだす
日本社会の病理とは?


わたしは「痴漢」の経験がある。あ。急ぎ断っておくと、もちろん、「やった」のではなく「やられた」経験である。

 
あれは社会人になって数年経ったころ。当時は実家と会社を往復していたわたしは、その日、多少の残業を済ませてから、いつものように地下鉄で高田馬場駅へ出て西武新宿線の下り列車に乗り込んだ。20時過ぎだったと思う。車内は乗客同士の身体が密着する程度に混みあっていたが、それも駅に停車するたびに少しずつ隙間ができていった。そうしたところ、ふいに気づいたのだ。吊革につかまって文庫本を読んでいたわたしの股間に、右隣から丸めた週刊誌の先端がずっと押しつけられていることに――。

 
当初は混雑のせいで偶然接触したものと思っていたが、上石神井駅に差しかかった時分には周囲の乗客もまばらとなったのに、その週刊誌の先端は相変わらず同じ位置に留まっている。のみならず、上下にリズミカルな運動さえはじめたではないか。わたしはようやくただならぬ事態を察して、文庫本のページから目を上げて右隣の人物を窺ったのだが、そのときの衝撃はいまもはっきり覚えている。ごくふつうの中年サラリーマンが眼鏡越しにニヤニヤ笑いかけてきたのだ。いや、ごくふつうどころか、こちらよりもよほど立派なスーツ姿だった。

 
周防正行監督の『それでもボクはやってない』(2007年)を観ると、まざまざとあのときの記憶がよみがえってくる。映画のなかで「痴漢」の被害に遭うのはいたいけない女子中学生で、わたしとは月とスッポンの違いであるにせよ。その少女は、朝の通勤ラッシュの車内でスカートの下に這わせてきた手をつかみ、一度は振り放されたものの、背後にいた26歳のフリーター・金子徹平(加瀬亮)をつぎの駅で告発する。しかし、身に覚えのないかれは無実を主張して、警察・検察ばかりか当番弁護士までが示談による解決を勧めるのを断固拒否し、家族や友人・知人の支援のもとに裁判に臨むのだが、やがて主任弁護士をつとめる荒川正義(役所広司)が「痴漢冤罪事件には日本の刑事裁判の問題点がはっきり表れている」と指摘するとおり、推定無罪の原則などしょせん建前でしかない現実が立ちはだかる……。

 
この映画の制作にあたって周防監督は、ひとたび検察が起訴した以上は被告人の有罪率が99.9%という、およそ他の先進国に例を見ない日本の刑事裁判の実態について徹底的な取材を行った。のみならず、映画が公開されて大きな反響を巻き起こすと、法務省法制審議会の「新時代の刑事司法制度特別部会」の委員として司法改革に参加し、そこでの経緯を著書『それでもボクは会議で闘う』(2015年)にまとめて公表している。首尾一貫した筋金入りの姿勢には敬意を禁じえない。

 
したがって、専門的な議論はそちらに委ねるとして、わたしが自分の経験から指摘したいのはつぎの点だ。金子徹平が懸命に身の潔白を訴えても、荒川弁護士らによる再現実験が検察の矛盾を明らかにしても、さらにはかれの無実を証言する目撃者まで出現しても、ついに99.9%の壁を崩せなかったのは、被害者の少女が最後まで告発を翻さなかったからだ。そこには彼女の味わったどうしようもない恐怖が横たわっていたのだと思う。

 
おそらく「痴漢」が引き起こす恐怖とは、それまで縁もゆかりもないアカの他人がいきなり自分に接触してネバネバとまつわりつくことだ。いったんそうなったとたん、相手の所業を無理矢理なかったものにして粘着的な関係が薄らぐのを待つか、または、相手の所業を告発してみずから粘着的な関係を断ち切るか、いずれかの対処しかないだろう。この少女の場合は勇気をもって後者を選び取ったからには、たとえ被告人に無実の可能性を認めたとしても、もはや引き返すことはできなったに違いない。

 
さらに、もうひとつの恐怖がある。わたしの経験の顛末を報告すると、列車が小平駅で停まったあとドアの閉まりかけたタイミングでいきなり外へ駆けだし、相手を車内に置き去りにして難を逃れることができた。しかし、安堵するより、あのニヤニヤと笑いかけてきた顔つきがいつまでも目の前にちらついてプラットフォームで立ち竦んでいた。自尊心の欠落。ごく当たり前のサラリーマンにこうした振る舞いをさせて憚らないもの。「痴漢」はとりわけ日本に顕著な社会現象と言われるが、もしそれが男性一般の自尊心の欠落を反映しているとするなら、われわれにとってこれほどの恐怖はないだろう。
 

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