アナログ派の愉しみ/本◎ポー著『メエルシュトレエムに呑まれて』

額から上の
わが「突然変異」について


新型コロナウイルスの流行でわれわれが学んだことのひとつに、実は「突然変異」というものがしょっちゅう起きるとの認識があったように思う。よく考えてみれば、われわれ人類からすればあっという間の変化だとしても、ウイルスにとっては相応の時間を費やしてのことかもしれないし、その変化だってわれわれに有害なものだから大騒ぎされるのであって、毒にも薬にもならなければハナから問題にされまい。つまり、「突然」といい「変異」といったところで、どこかに客観的な基準があるわけでなく、要は受け止める側の価値判断にもとづく相対的な現象なのだ。

 
そんなふうに考えたときに、わたし自身の「突然変異」として真っ先に思いつくのは、額から上のできごとだ。もちろん、ひとは自分の額から上を直接目にすることはできないから、ある日、鏡の向こうの髪の毛に白いものを見出すという運びになる。それはなかなか衝撃的な体験のはずだが、まあ、ささやかな偶然で色変わりもするだろうとか、なに、髪の毛の存在自体が心細くなるのに較べたらマシだろうとか、あれこれとおのれを言いくるめているうちに白い部分がどんどん拡大していき、かくしていまやすっかり頭部が真っ白になってしまった自分がいて、この現実をわたしは「突然変異」と受け止めずにはいられないのである。たとえ、それが最初の発見から20年を経た結果としても、あるいは、わたし以外のだれひとり意に介さなかったとしても……。

 
一体、この事態はなんなのか? そこで、わたしはずっと以前、まだ額から上が真っ黒だったころに読んだ、エドガー・アラン・ポーの短篇小説『メエルシュトレエムに呑まれて』(1841年)の一節を想起する。

 
ストーリーはごく単純だ。ノルウェーのロフォーデン地方の切り立った崖の上で、老いた漁師が客人に向かって3年前の体験を話して聞かせる。それによれば、ここから眺められる暗黒の海では、潮の干満に際して「メエルシュトレエム」という直径1マイル以上におよぶ渦が出現する(単純計算で、鳴門海峡の「うずしお」の60倍ほどの規模か)。それに引き込まれたら海の藻屑となってしまうため、地元の漁師も恐れて近づかないのだが、老人はあたりの豊かな漁場を目当てにふたりの兄とともに二本マストの漁船を出す毎日だった。そうしたところ、ある日、猛烈な暴風雨に巻き込まれて操舵不能となり、船はとうとうメエルシュトレエムにつかまってしまう。ひとりの兄は波に流され、もうひとりの兄は気が狂って、ただひとり自分だけが樽に閉じこもって海面へ逃れて漂うという、およそ6時間の孤軍奮闘を経て、ようやく仲間の漁船に助け出され九死に一生を得た。そのときの模様はこんなふう。

 
「わしを船にひきあげてくれたのは古くからの仲間で毎日のように顔を合わせている連中ですが、ちょうどあの世からきた幽霊のように、わしの顔の見わけがつかない。一日前までは大鴉のようにまっ黒だった髪が、ごらんのようにまっ白になっていました。みんなのいうところによるとわしの顔つきまでがすっかり変ってしまったということです」(小川和夫訳)

 
すっかり白髪頭で老人のように見えたのは未曽有の冒険のせいだった。その結末が初めて読んだときにひときわ印象に残ったのは、当時のわたしがその男の実年齢と同じぐらいだったからに違いない。

 
今度久しぶりに読み直してみて、ポーの天才の筆が描きだすメエルシュトレエムの情景にあらためておののき、これだけでも頭皮の毛細血管が収縮するのを感じるのだから、もし現実の身の上に降りかかったならばたちまち毛髪が変容をきたすことも納得がいく。そして、わたしは思うのだ。このノルウェーの漁師がわずか6時間のあいだに経験した恐怖と同じだけの量を、こちらは20年間かけてじわじわ、じわじわと味わってきたのではないか。当たり前の人生における恐怖の総和。それが額から上の「突然変異」を引き起こしたのだろう、と――。

 
【追記】ささやかな疑問をひとつ。無生物とされるウイルスに対して「突然変異」の表現を与えることに首をかしげてしまう。本来なら、突発的な「化学変化」と見なすべきではないのか?


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