アナログ派の愉しみ/本◎ダーウィン著『種の起源』

歴史的著作に収められた
ただひとつだけの図版とは


なぜ地球上にはかくも多様な動植物が存在するのか、その謎を進化論によって解き明かそうと、チャールズ・ダーウィンは50歳で著作『種の起源』(1859年)を発表した。分厚い書物をひもといてみると、びっしりと文字が埋め尽くしているなかで、ただひとつだけ大ぶりな図版をあしらったページがある。第4章の「自然淘汰」に収められた、生物の形質の分岐と自然淘汰の原理の相関図がそれで、実はまったく同じ図版を第10章の「生物の地質学的変遷について」でも流用しているから、正確にはふたつと言うべきかもしれないけれど、いずれにせよ、ダーウィンはみずからが考案したこの図版をことのほか気に入っていたのだろう。

 
ここに描かれたものを強引に言葉で説明してみよう。全体を方眼紙と見なすと、最下段には左右にA、B、C……Lのアルファベットが置かれ、そこから垂直方向にⅠ、Ⅱ、Ⅲ……Ⅻのギリシア数字を付した横線が等間隔で引かれている。そして、アルファベットのそれぞれから出発した枝状の破線が、ギリシア数字の示す単位世代ごとに分岐して、あるものはさらに枝分かれを繰り返し、あるものは途中で行き止まり、進化と絶滅の道行きを辿りながら、最上段のⅫ世代ではもとの11の種から新たな15の種が生じている。それらの樹形の模様は、さながら現代数学のフラクタル図形のようだ。ダーウィンはこの図版にもとづいて自然淘汰の諸相を説明してから、こう論じている。渡辺正隆訳。

 
 あらゆる動物やあらゆる植物がすべての時間と空間を超えて類縁関係にあるというのは、見慣れているせいで見過ごしがちな事実ではあるが、まことにすばらしい事実である。(中略)個々の種はそれぞれ個別に創造されたとする創造説では、全生物を分類した場合のこの壮大な事実を説明できないと私は思っている。私にとって最も納得のいく説明は、図に示したような、絶滅と形質の分岐を引き起こす自然淘汰の複雑な作用と遺伝による説明である。

 
この歴史的な著作の核心部分といっていいだろう。地球上の動植物のそれぞれを神がつくったとする、キリスト教社会を支配してきた創造説への反証こそ、このひとつの図版に込められた意図だったのだ。当然ながら旧来のイデオロギーを信奉する側からは猛然と応酬の声が巻き起こり、たとえばカトリックの司祭で大神学校の科学教授だったド・レストラードは『進化論とダーウィニズム。組織的反論』を著して、「かれの全体系が依拠するものとなっている主な議論は、どんなものなのだろうか。それは、生存競争によって決定的となる自然選択である。だが自然選択そのものは一個の仮説であって、せいぜい若干の事実を説明できるにすぎず、大多数の事実を説明することはできない」(八杉龍一訳)と断じている。その批判の矢は正鵠を射たもので、以降、進化論はこうした議論を組み込みながら壮大な体系を展開していくことになる。

 
そもそもダーウィン自身も、世に送り出した『種の起源』にはまだ科学的な厳密さに欠けるところがあるのを自覚していたフシがある。というのは、先に引用した個所のあとでつぎのように「自然淘汰」の章を結んでいるからだ。

 
 その樹木が成長を開始して以来、たくさんの太枝や大枝が枯れ落ちた。枯れ落ちたさまざまな太さの枝は、現生種は存在せず、化石でしか知られていない目、科、属などに相当する。(中略)芽は成長して新しい芽を生じていく。そして生命力に恵まれていれば、四方に枝を伸ばし、弱い枝を枯らしてしまう。それと同じで、世代を重ねた『生命の大樹』も枯れ落ちた枝で地中を埋め尽くしつつも、枝分かれを続ける美しい樹形で地表を覆うことだろう。

 
これは論文というより、むしろ散文詩と見なしたほうがふさわしい。ダーウィンはあたかもみずからが考案した図版に見惚れているかのようだ。それはおそらく、かつてキリスト教の見解に反しながらも、天体運動についてコペルニクスやケプラーが、さらには力学全般についてニュートンが、あまりにもシンプルな法則を発見したときに味わったはずの自然世界の美への驚きや喜びと通じるものだったのではないか。たとえ旧約聖書創世記の記述の否定につながろうと、そこにはやはり神秘の深奥が存在するという、何より驚きと喜びが上記の文章を書かせたのではないか、とわたしは思う。
 

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