アナログ派の愉しみ/本◎伊坂幸太郎 著『死神の精度』
死神をめぐる
異形のメルヘン
先立って、ある知人と久しぶりに再会した。かつて出版社で文芸編集の仕事をしていただけに大変な本の虫で、とくに現代日本の小説やマンガの分野ではわたしなどおよびもつかないほどの読書量の持ち主だ。その相手がビールを飲みながらいきなり、伊坂幸太郎は好きか? と聞いてきたので、過去にひとつふたつ読んだけれど、ぴんとこなかったので自分には縁のない作家だと思っている、と答えたところ、それはもったいない! と頬をふくらませた。ぜひとも『死神の精度』(2005年)を読むべきとのご託宣だった。
そこで、後日、ひもといてみると――。のっけから死神が大手を振って登場してくるのはいかにも伊坂ならではだが、面食らってしまってなかなかストーリーに入り込めない。こうした設定だ。なんでも人間の死をつかさどる死神たちの組織なるものがあって、調査部に所属する主人公の死神は、いったん死の運命が定まった人物に接触して身辺調査を行い、その死の「可」か「見送り」を最終的に判定するという業務についている。そんな立場で出会った、冴えないOL、ヤクザの若頭、恋愛中の青年……といった調査対象者たちの生死のドラマをかれが語っていく形式の連作短篇集だ。
すると、どうしたって重苦しい雰囲気がわだかまりそうなものだが、さにあらず。表題作の第1話において、あらかじめ死神はこんな述懐を開陳するのだ。
私たちが担当する相手は、促したわけでもないのに、「死の話」を口にすることが多い。それは、死への怯えであったり、憧憬であったり、蘊蓄であったりするのだが、とにかく鬱蒼とした藪の中から、さらなる暗黒を覗き込むような顔で、ぽつぽつと話をしてくる。
これは、私たちの正体を、人々が無意識に察するかららしい。研修の時にそう教わった。「死神は、人間に死の予感を与える」と。
なるほど、われわれは自己の死を見つめるのが怖いあまりに、かえってふだんから自己の死を言い立てたり笑い飛ばしたりしがちなものだ。それは、あたかも犬が用を足したあとに糞便の臭いを嗅ぐことで自己の存在を確かめる行為に似て、同様の臭いの痕跡をわれわれは死神と称しているのかもしれない。かくて、伊坂のアクロバティックな筆は、死神を狂言回しにしながら結局は人間の生きざまのけなげさ、しぶとさを描きだすという手品を成り立たせてみせるのだ。
調査対象となった冴えないOLの藤木一恵は、電機メーカーのコールセンターで苦情処理係をやっているのだが、たまたま敏腕の音楽プロデューサーが受話器の向こうの声を耳にして、本人も知らなかった歌手の天分があることを発見する。これまで何ひとつ取り柄のなかった人生の終焉にあたって、初めて華やかな未来への可能性の扉が開かれたのだ。思いがけない事態に直面して、音楽好きの死神はこんなふうに受け止める。
私は、人間の死に興味はない。仕事だという理由で関わっているに過ぎず、担当している相手の人生がどのような形で終わろうと、あまり気にならない。
ただ、もし万が一、あのプロデューサーの直感が正しくて、さらに万が一、彼女が優れた歌手となることに成功したとして、さらにさらに、私がいつか訪れたCDショップの試聴機で彼女の曲を聴くときが来たら、それはそれで愉快かもしれないな、とは思った。
こうしてぶっきらぼうな死神は、一恵の死を「可」から「見送り」に切り替えて組織に報告する。そこには、人間が生きてあることについて特別重大な意味づけを持ち込まず、偶然の積み重ねのうえに、たんに「愉快かもしれないな」といった程度のときめきをもってして十分とする人生観が横たわり、迷える子羊のだれに対しても微笑みかける、異形のメルヘンと言っていいだろう。
くだんの知人は、出版社の定年を迎えたときに再雇用の途を選ばず、かねて小さな子どもたちを世話する仕事につきたいという希望があったことから、職業訓練を受けて、現在は保育園で用務員として週3日働いている。至って満足そうだ。そんなかれだからこそ、この死神の物語がことさら心の琴線に触れたのに違いない。ひととおり読み終えたあとも、わたしにとって伊坂が依然として遠い作家と感じられてしまうのは、そうした稚気と優しさが自分に不足しているからだと思う。
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