アナログ派の愉しみ/狂言◎『蚊相撲』

一国の大名と
一匹の蚊の格闘劇


もちろん、わたしに狂言師(能楽師狂言方)の品定めなどできはしないが、その若い役者を眺めるたびに、ホンモノの太郎冠者を目の当たりにしているような気分を味わう。

 
大蔵章照(あきみつ)。700年以上の歴史を持つという能楽狂言最古の流派、大蔵流の宗家・二十五世大蔵弥右衛門の孫で、まだ15歳の高校生ながら、舞台上でのメリハリのある発声と立ち居振る舞いが実に頼もしい。また、テレビ・ラジオへの出演ばかりでなく、大蔵流の180の演目にちなんで「ももやそ(百八十)狂言」というYouTubeチャンネルを開設して笑いの古典芸能の魅力を発信し、大蔵流では同じタイトルを冠した新たな舞台公演シリーズもスタートさせた。

 
今年(2024年)6月、その第2回公演が東京・新宿区の矢来能楽堂で開かれ、わたしも足を運んで、全5演目のうち「蚊相撲(かずもう)」「骨皮(ほねかわ)」「神鳴(かみなり)」に出演した大蔵章照の英姿をたっぷり堪能した次第。わけても印象深かった「蚊相撲」は、こんなストーリーだ。なお、引用したセリフは岩波書店の日本古典文学大系『狂言 上』(1960年)にもとづく。

 
世間ではあまねく相撲が大流行となって、ある国の大名(小梶直人)が自分も相撲取りを召し抱えたいと考えて、太郎冠者(章照)はそのために都へ遣いに出される。そして、街道筋で行き交う人々を物色していると、いかにも立派な風采の大男(大蔵康誠)が現れて、こんなふうにひとりごちるのだった。

 
「まかり出でたる者は、江州守山に住む蚊の精でござる。天下治まりめでたい御代でござれば、都には相撲がはやると申すによって、相撲取になって都に上り、人間に近づき、思うままに血を吸おうと存ずる。まずそろりそろりと参ろう。イヤまことに、こう参っても何とぞ抱え手があればようござるが、さりながら広い都でござるによって、誰(た)そ抱えられぬと申すことはござるまい」

 
なるほど、確かにその顔からはストローのような口ばしが長々と伸びている。つまり、人間が虫になったフランツ・カフカの小説『変身』とは逆に、こちらは虫のほうが人間に化けたというわけらしい。

 
そうとも知らずに太郎冠者は大男に相談を持ちかけて、話がまとまるなり、意気揚々と主人のもとへ連れていった。大いに喜んだ大名は、さっそくこの相撲取りと試みに組みあってみたところ、蚊の精がすかさず口ばしを突き刺したせいで、いきなり目まいに襲われて引っ繰り返った。そして、我に返ると、江州守山が蚊の名所なのに思い至って相手の正体に気づき、太郎冠者にこんな対策を伝える。

 
「オオそれそれ、総じて蚊というものは、風を嫌うものじゃによって、いま一番取ろうほどに、汝は精を出(だ)いてあおげ。風を嫌うたならば、疑いもない蚊の精であろうによって、まあいを見て、口ばしを引き抜いてやろう」

 
かくして、大名と大男がふたたび組みあって、傍らから太郎冠者が扇子で風を送ると、蚊の精はすっかりうろたえて正体を現し、大名がその長い口ばしを引き抜いて撃退するというオチになる。ことほどさように、一国の大名と一匹の蚊の対決といういかにも馬鹿馬鹿しいシチュエーションを、双方のあいだに立った太郎冠者が巧みに切り盛りすることで、あたかも伊藤若冲や歌川国芳らの奇想画のような、遠近法と無縁のおかしみの世界を成り立たせてしまうのだ。

 
いや、ことによるとそんな呑気なハナシではないのかもしれない。大蔵流の公演ではいつも、章照の実父で舞台を取り仕切る大蔵弥太郎のウィットとユーモアに富んだ解説が聞きものなのだが、このときもあらかじめ内容のあらましを説明したあとで、こんなひと言をつけ加えてみせた。

 
「なんでも、人間をいちばん殺してきた動物は蚊なんだそうですな」

 
この言葉は紛れもない事実だ。蚊はマラリアやジカ熱、あるいは近年話題のデング熱などの感染症を媒介することによって、21世紀のいまでも世界で毎年約78万人の生命を奪って第1位の座を占めているという(ちなみに、第2位は人間自身、第3位は蛇だとか)。そう考えれば、この狂言の大名と蚊の精の格闘はおいそれと笑い飛ばせない、カフカ作品にも匹敵する時代を超えた不条理劇のようにも見えてくるのである。
 

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