アナログ派の愉しみ/本◎チェーホフ著『ねむい』

呪文は
「スパッチ・ホーチェッツァ」


「スパッチ・ホーチェッツァ」

 
それは、わたしにとって一種の呪文のようなものだ。

 
先年のコロナ禍がもたらした恩恵のひとつに、緊急事態宣言の当時、JR中央線上りの通勤電車で座れるようになったことがある。それまでサラリーマン生活40年ほどのあいだ、春夏秋冬ぎゅう詰めの車内で吊革にすがりつき、これがもし人間でなく家畜だったら動物愛護団体から抗議がくるはずの環境に置かれてきたのが、いきなり乗客数が激減して、終点まで1時間近くの車中を優雅に腰かけて過ごせるのが当たり前とはおよそ想像だにしたことのない事態だった。

 
そうなってみると人間とは弱いもので、車内では立ったほうが健康にいいとわかっていても、目の前の席が空けばこれ幸いと腰かけずにはいられない。腰かけたら腰かけたで落ち着いて読書にいそしむつもりでいたのに、尻の下のシートが妙に生温かいせいもあってついウトウトする。そのうち座席についたとたん、条件反射のように睡魔に身を任せてしまうのがつねとなり、そこで冒頭の呪文を口ずさむのだ。

 
ロシア語で、ねむい、という意味。ロシア文学黄金期の作家のひとり、アントン・チェーホフはこれをタイトルに使った短篇小説(1888年)を書いて、わたしは大学の授業でそれを原文で読んだことがある。もとより、テキストの文章のほうはとっくに忘却の彼方に消え去ってしまったが、上下の唇を弾いて発音するタイトルだけがなぜか脳裏にこびりついた。

 
筋書きはごく平明だ。13歳の少女ワーリカは子守りとして靴職人の家に雇われている。すっかり夜も更けて、いまだに泣き止まない赤ん坊の揺りかごを動かしているけれど、まぶたが重くなるのをどうすることもできない。万一眠り込んだら主人夫婦から折檻されるのは重々わかっていても、少しずつ少しずつ首が垂れてくる。そんな夢現の境地のありさまをチェーホフの筆はこう描く。神西清訳。

 
 燈明がまたたく。みどり色の光の輪と影が、また動きだして、ワーリカの半びらきの、じっとすわった眼へ這いこむと、はんぶん寝入った脳みそのなかで、もやもやした幻に組みあがる。見ると、くろ雲が、空で追っかけっこをしながら、赤んぼみたいに泣いている。そこへ、さっと風が吹いて、雲が消えると、ワーリカには、いちめんぬかるみの、ひろい街道が見えだす。街道には、荷馬車の列がつづき、背負い袋をしょった人たちがよたよた歩いて、何やら物陰が行ったり来たりしている。両側には、冷たい、すごい霧をとおして、森が見える。と急に、背負い袋と影をしょった人たちが、ぬかるみの地べたへ、ばたばた倒れる。――『どうしたの?』と、ワーリカが聞く。――『寝るんだ、寝るんだ!』と、みんなが答える。そしてみんな、ぐっすり寝入る。すやすや眠る。

 
どうだろう? だれしも眠気と格闘しつつ、こうした光景を垣間見た覚えがあるのではないか。わたしなんぞ、いま文章を書き写していても頭の芯が痺れて、たちまちパソコンのキイボードをまさぐる指先がもつれるのを実感した次第。かつて大学の教室で、世界文学史上の短篇の名手ならではの技と出会って、すこぶる感じ入ってからは、思いがけず眠気に襲われてあえなく屈服するというたびに、脳裡にこびりついたロシア語を言い訳代わりに口ずさむクセがついたようだ。

 
それにしても、われながら心身のつくりがよほど環境に順応しやすいらしい。いったん通勤中のわずかな睡眠に馴染んだのち、今度はそれが叶わなくなると心身が猛烈に欲求不満を訴えてくる。現在ではとっくに車内も旧に復して動物愛護団体ならずとも心穏やかではいられない混雑ぶりのなかで、えんえん吊革を手に突っ立っているうち、まさにワーリカが体験したごとく頭のなかで「緑色の光の輪と影」がグルグルと動きはじめる。そして、幸運にも眼前の乗客が座席から立ち上がった場合には、そのあとによろめくように腰かけるなり、チェーホフ伝来の呪文を口にして目を閉じるのだ。

 
やがて永遠の眠りにつくときにも、わたしは最後の息でそっとつぶやく気がする。「スパッチ・ホーチェッツァ」と――。
 

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