アナログ派の愉しみ/音楽◎パデレフスキー演奏『月光』

音楽と政治が
不可分だった記録


『銭形平次捕物控』で知られる作家・野村胡堂は、あらえびすのペンネームで明治・大正の昔からクラシックのレコード評論にも健筆をふるった。その集大成ともいえる『名曲決定盤』(1939年)のなかで、このように記述している。

 
「パデレフスキーは、過去三十年間ピアノの王座に儼然として貧乏揺ぎもしない。なんと言っても七十九歳(昭和十四年現在)の老躯だ。その演奏にはいろいろと疑義を持たれるが、パデレフスキーより技巧的には遥かにうまいと思われるピアニストが五人や七人はあるにしても、まだパデレフスキーの王座を覬覦(きゆ)するものは一人もあり得ない。〔中略〕パデレフスキーの実演は、レコードでも想像されない見事さだということである。その銀白の髪に照明を浴びて、ピアノという楽器を御して行く姿は、神話の国の巨人のように、神聖なものさえ感じさせると言われている。パデレフスキーは、ステージに起っただけでも、幾千の聴衆を魅了し尽すそうだ。わけても英雄崇拝的な気分をふんだんに持つ婦人客の陶酔は、想像以上のものがあるらしい」

 
およそ甘言を弄さない批評が持ち味のあらえびすとしては、破格の賛辞と見なしていいだろう。

 
イグナツィ・ヤン・パデレフスキーは、グスタフ・マーラーと同じ1860年生まれ。現在はウクライナ西部のポドリア地方にあってポーランド貴族の家系を出自とする。ワルシャワ、ベルリン、ウィーンなどで音楽を学んだのち、20代後半にピアニストとしてデビューするなり、たちまちヨーロッパやアメリカで絶大な名声を博した。かれが残した初期の電気吹き込みの頼りない録音からも、強靭で輝かしい打鍵がめざましい「ピアノの王座」の貫禄を聴き取ることができる。

 
それだけではない。当時としては異例な、パデレフスキーそのひとが本人役で出演した映画『月光の曲』(ロタール・メンデス監督/1937年)まで存在するのだ。田舎貴族の令嬢のロマンスを追いつつ、主眼はパデレフスキーが十八番とした、ショパンの『英雄』ポロネーズ、リストの『ハンガリー狂詩曲』第2番、自作の『メヌエット』、ベートーヴェンの『月光』ソナタ第1楽章をまるごと演奏するシーンで、これらが上映時間約85分の三分の一を占めるのだから、ほとんどドキュメンタリー映画と言っていい。

 
だれもが目を疑うことだろう。そこでは実際に、小柄で猫背の貧相な老人がピアノを前にするといきなり豹変して、銀髪を光らせながら、まさに神話の国の巨人のような神々しさを撒き散らして、とりわけ女性客たちを酔わせているさまがありあり見て取れるのだから。それにしても、このただならぬオーラはどこからやってくるか? あらえびすはさらにつぎの解説も加えている。

 
「欧州大戦当時のパデレフスキーの活躍は見事であった。彼は祖国ポーランドの銃後の後援にあらゆる努力と私財を捧げて惜しまなかった。傷病兵にも、寡婦にも、孤児の上にも彼の手は伸べられた。〔中略〕戦争終結後、パデレフスキーは選ばれてポーランド代表となり、ヴェルサイユの講和会議に出席して、樽俎(そんそ)折衝を重ね、遂にポーランドは百年の桎梏を免れて、光輝ある再建国となったことは、大方の知られる通りだ。ポーランド独立後、選ばれて初代の大統領となり、外務大臣を兼ねて、よく今日のポーランドの繁栄を築くの基となったことも、また大方の知っておられる筈のことである」

 
すなわち、パデレフスキーを「ピアノの王座」に就かせたのは、第一次世界大戦当時のこうしたかれの政治活動も与って力あったのだろう。白と黒の鍵盤ばかりでなく、現実の世界のなかでも強靭で輝かしいハーモニーを奏でてみせたことに万人が跪拝したわけだ。しかし、話はここで終わらない。あらえびすがこの記録を書き留めたのち、1939年にヒットラーの率いるナチス・ドイツが電撃的にポーランドへ侵攻すると、すでに政界を引退していたパデレフスキーは亡命政府の指導者としてふたたび波瀾の渦中に身を置き、正面切って時代の狂気と立ち向かう。そして、祖国回復の資金調達のための演奏旅行を敢行し、滞在先のニューヨークで80歳にして客死を遂げた……。

 
この稀代のピアニストにとって、おそらく音楽と政治は不可分のものだったろう。奇しくもドキュメンタリー映画は、そうしたパデレフスキーの不穏なオーラを記録してしまったのに違いない。だから、ラストシーンでかれの指先が紡ぎだす『月光』ソナタは、青白い光の滴が降り注ぐ夢幻の境地へと導くばかりでなく、その向こうにどす黒い口を開けた虚無までも垣間見せて、われわれを慄然とさせずにはおかないのだ。


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