アナログ派の愉しみ/本◎宮本常一 著『忘れられた日本人』

国籍・人種・宗教・言語の
違いを乗り越えていくために


「投票は銃弾よりも強い」とは、エイブラハム・リンカーンの言葉だ。大は国内外の政治の現場から、小はマンションの管理組合や学校のPTAまで、当事者間の意見の対立に投票でケリをつけようとするところ必ず不平不満が生じるもの。そのときに、最後は銃弾に斃れたアメリカ大統領のこの金言を持ち出せば、水戸黄門の葵の御紋の印籠よろしく、だれしも平伏せずにはいられまい。投票の結果こそ正当なのだ、と――。

 
だが、本当にそうだろうか。近年、地球環境、宗教対立、国際移民、格差社会……などのイシューをめぐって、アメリカやヨーロッパの筋金入りの民主主義国家でさえも、投票という手段がかえって国民世論の分断を招いているように見受けられる。もちろん日本だって、原発や米軍基地を争点とした住民投票が示すとおり事情は同じだろう。目の前の課題に対して、たとえ合意はできなくとも、双方がおたがいに歩み寄れるよう、果たして他に手段はないものか? そんなことを考えたのは、宮本常一の著作『忘れられた日本人』(1960年)のなかの記述を思い出したからだ。

 
「旅する巨人」として知られる宮本が、それまで全国各地で出会った日本人古来の生きざまをレポートして大きな反響を呼んだこの本は、もはや民俗学の古典と目されている。著者が1951年(昭和26年)に長崎県対馬で見聞した「寄りあい」のエピソードは巻頭に置かれているだけに、とりわけ強い印象を受けたのだろう。

 
それによると、対馬の伊奈という村へ調査に訪れたときに、区長の父親である老人から当家の帳箱に大量の古文書が保管されていると聞いて、宮本は借用を申し出る。老人が寄りあいに出席中の区長の息子を呼び戻して事情を伝えると、区長は「みなの意見を聞かなければいけない」と古文書を手にしてふたたび出かけたきり戻ってこないため、宮本が寄りあいの会場へ出向いた。そこでは20人以上の村民たちが三々五々まとまって「古文書を貸していいものだろうか」「いままで貸し出したことは一度もない」などと話しあい、折りあいがつけば区長に知らせ、つかなければさっさと別の議題に移り、しばらくするとまた古文書の話になって「見ればこのひとは悪いひとでもなさそうだし」といった具合に話しあいが重ねられ、途中で参会者の出入りもありつつ、全員の承認が得られるまでに丸二日かかったという。その経緯を観察したうえで宮本はこう記す。

 
「村里の中にはまた村里としての生活があったことがわかる。そしてそういう場での話しあいは今日のように論理づくめでは収拾のつかぬことになっていく場合が多かったと想像される。そういうところではたとえ話、すなわち自分たちのあるいて来、体験したことに事よせて話すのが、他人にも理解してもらいやすかったし、話す方もはなしやすかったに違いない。そして話の中にも冷却期間をおいて、反対の意見が出れば出たで、しばらくそのままにしておき、そのうち賛成意見が出ると、また出たままにしておき、それについてみんなが考えあい、最後に最高責任者に決をとらせるのである」

 
投票は行わない。時間を区切ることなく、いくつもの議題を俎上にのぼせながら、あっちに行ったりこっちに来たり徐々に歯車を進めていく。そうすることで、確かにひとつのテーマを前にして議論が平行線を辿り、ストレスだけが溜まるような事態は避けられるだろう。たとえ丸二日をかけても、その過程でおたがいの意見を摺りあわせ、完全な一致を見ないまでも双方納得して、あとにわだかまりが残らないとするならば、むしろ合理的と言えるのではないか。

 
もとより、こうした手段がごく小さなコミュニティだからこそ成り立つとは、わたしも思う。つい最近までは。そう、はるかな過去に滅んだはずのアナログのやり方を、もしかしたら今日のデジタル革命が再生できるのでは、と気づいたのだ。AI(人工知能)技術の進化にともなって地球という情報空間がひとつの村のように小さくなりつつあるいま、人類がおたがいの意見交換によって合意には至らなくても納得のいく結論を見出すまで十分時間をかけるという、寄りあいの仕組みをグローバルな規模でつくるのだ。国籍・人種・宗教・言語の違いを乗り越えていくために――。わたしの無邪気な夢物語だろうか?


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