アナログ派の愉しみ/映画◎アンリ・コルピ監督『かくも長き不在』

長年のつれあいの顔が
アカの他人に見えたときに


アンリ・コルピ監督の『かくも長き不在』(1961年)は危険な映画だ。既婚者ならだれでもこんな体験をしたことがあるだろう、ふと、つれあいの顔に見覚えがなく、まるでアカの他人としか思えない、といったような……。そんなときの対処法はふたつある。ひとつは、いまさら違和感をどうするわけにもいかず、いったん瞼を閉じてから、目の前の相手が人生の伴侶と割り切ること。たいていはこうしてやり過ごすだろう。しかし、もうひとつ方法がある。逆に、目の前の見知らぬ人物に合わせて記憶をつくり変え、あえて違和感のほうをもみ消すのだ。この作品は、まさにそれを実行しようとした女を描く。

 
パリの下町で小さなカフェを経営している女(アリダ・ヴァリ)。今年も革命記念日(7月14日)のお祭り騒ぎがやってきて、その後のバカンスのシーズンには恋人のトラック運転手と旅行する予定でいた。ところが、突如、どこからともなくホームレスの男(ジョルジュ・ウィルソン)が、ロッシーニのオペラ『セビリアの理髪師』のなかのアリア「陰口はそよ風のように」を口ずさみながら立ち現れる。女はかれに自分の夫を重ねあわせた。16年前、第二次世界大戦中のナチス・ドイツの占領下で、秘密警察ゲシュタポに連れ去られて行方知れずとなったままの……。

 
男は過去の記憶を失っていた。女はあとをつけてセーヌ川岸の掘っ立て小屋まで赴き、あれこれ話しかけてカフェへ誘う。店では昔日の夫と面識のあった親族を集めて検分させ、かれらが顔立ちも背格好も違う別人だと弁じるのを尻目に、女は断固として夫だと主張して譲らない。彼女はバカンスへ行くはずだった恋人に別れを告げる一方、その威勢に腰が引けがちの男をなかば強引にディナーへ招待する。食卓には夫の好物だった高価なブルーチーズとワインを用意して、執拗に男の過去を呼び戻そうとするが、ドイツの強制収容所で記憶が消えたあとに覚えていることは、「立ち上がり、歩いて、それだけだ」。

 
しかし、女は諦めない。ジュークボックスで音楽をかけると、ふたりは本物のカップルのようにダンスをはじめ、男の髪をまさぐる女の指先が後頭部のミミズ腫れの傷痕を探りあて、どうやらゲシュタポは拷問のみならず野蛮な脳外科手術まで行ったのが記憶喪失の原因らしいと気づく。だが、女は諦めない。ことの成り行きに動転して外へさまよい出た男の背中に向かって「アルベール・ラングロワ!」と夫の名を叫ぶと、相手は銃を突きつけられたかのように両手を挙げ、つぎの瞬間、脱兎のごとく走り出して反対側からやってきたトラックに跳ね飛ばされる。

 
それでも、女は諦めない。男がからくも一命を取り留めて姿をくらましたことを聞かされると、こうつぶやくのだ。笑みさえ浮かべて。

 
「でも、冬がくれば戻ってくるわ、いまの夏は時期が悪いの。寒い冬にはちゃんとした家が必要だもの、夏は外で過ごせたとしても。さあ、冬を待ちましょう」

 
この最後のセリフが示すとおり、女だってとうに、男が夫ではなく一介のホームレスに過ぎないことを察している。であっても、男を手放さずにあくまで夫として仕立て上げようとするのだ。そのために必要とされる記憶の捏造は、すでに『セビリアの理髪師』のアリア、ブルーチーズとワイン、手に手を取ってのダンス……といった具合に着々と積み重ねられている。そう、ある意味では相手の記憶喪失がむしろ好都合なのだ。さらに言うなら、自分のもとから遁走した男がトラックにはねられて、もしそのまま死んでしまったとしてもそれはそれで差し支えなかったろう。

 
彼女が追い求めているのは未来ではない。かつて自分が若く、美しく、生涯で最も輝いていたはるかな過去なのだ。夫が行方不明となったせいで尻切れトンボのまま16年間、なんの手触りもなく宙に浮いてきたものを、見ず知らずのホームレスの出現をきっかけにふたたびわが手に取り戻す。この機を逸したら、二度と回収することは叶わないだろう。その重大さからすれば、男の存在などしょせん触媒であって本当の夫であるかどうかは二の次に過ぎない。すべては自分のためである。その呪縛により、やがて男は必ず彼女のもとに戻ってくるに違いない――。この映画を危険と評したゆえんだ。

 
長年のつれあいの顔がアカの他人のように見えたときには、相手の目にもこちらが同様に映っているだろう。さて、そのときに相手はどのような挙に出るか、そして、わたしはどのように処すればいいのだろうか?
 

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