アナログ派の愉しみ/映画◎北野 武 監督『あの夏、いちばん静かな海。』

このただならぬ
静けさの気配は一体?


寂寞、と形容したくなる。それもセキバクではなく、あえてジャクマクと声に出して読みたいような……。北野武監督の第3作『あの夏、いちばん静かな海。』(1991年)だ。

 
湘南海岸の夏。聾唖の青年シゲル(真木蔵人)は、清掃車によるゴミ回収の仕事のさなか、破損したサーフボートを手にしたのをきっかけに、同じく聾唖の恋人タカコ(大島弘子)と海辺に繰り出してサーフィンをはじめ、やがて本格的にのめり込んでいき、サーフショップの主人に誘われて房総での大会に出場するまでに。当然ながら、ふたりには一切セリフがなく、わずかに手話のやりとりが交わされるだけだが、それも必要ないくらい静けさのもとで充足している。いや、ふたりだけではない。シゲルとタカコを取り巻く人々も、ごくさりげない日常会話だけで、セリフらしいセリフが発せられることはない。むしろ、そうした言葉のイメージの喚起力を注意深く排除しているようだ。すなわち、この作品においては言葉ではなく、静けさが詩を成り立たせている。

 
考えてみると不思議な気もする。この映画がつくられたのは、「ビートたけし」がお笑い芸人として頂点をきわめながら、写真週刊誌の取材態度に逆上したあまり弟子連中と編集部へ殴り込みをかけて逮捕され、裁判で有罪判決が下されるという、賑々しい芸能界にあってもおよそ他に例を見ないほどの喧騒の渦中で生きていた時期と言っていい。それを如実に反映してのことだろう、北野がこれまで監督として撮ってきた『その男、凶暴につき』(1989年)、『3-4x10月』(1990年)や、この聾唖の男女のラブストーリーのあとに続く『ソナチネ』(1993年)でも、やたらに拳銃が火を吹いて鮮血が飛び散るという、めくるめく暴力と自滅の心象風景だった。そうしたなかにあって、ひとりこの作品だけが孕む、ただならぬ静けさの気配は一体どうしたことだろう?

 
もともとの構想では、瀟洒な邸宅に住むタカコが両親から見合いを勧められたり、それを無視してシゲルとふたりだけでだれもいない教会で結婚式を挙げたり……といったドラマティックな場面が用意されていたところ、北野監督が最終的に取り払ったのだという。その結果、砂浜にえんえんと打ち寄せる群青の波が主役となって、とくに事件らしい事件は生じず、せいぜい他のサーファーのガールフレンドがシゲルに近づいてタカコが嫉妬心を起こすぐらいで、それもことさら和解の言葉を必要としないままほぐれて、ふたたび平凡な日々が過ぎていく。だから、ラストでタカコが波打ち際にサーフボートだけを見つけて、シゲルが海に沈んだことが暗示されるのはいかにも取ってつけた印象が強いのだが、それもただならぬ静けさの気配を追求しての結末だったに違いない。

 
 太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

 
かつて中学の教科書でこの2行だけの『雪』に出会ったとき、殺風景な教室の机で、目の前に柔らかい雪が降りはじめた夜の景色が広がり、ただならぬ静けさの気配が全身に染みわたってきたのを覚えている。当時はそんな言葉を知らなかったけれど、やはりジャクマクの形容がふさわしかったろう。『あの夏、いちばん静かな海。』を初めて目にした際、季節も場所もまったく異なるのに、真っ先に訪れたのはあのときに感じ取ったものと共通する感覚だった。そして、もし寂寞の極北を詩人・三好達治がこの一篇に結晶させたとするならば、監督・北野武もまた、みずからに刃向かってこの一作にデッチ上げてあげてしまったのではないか。芸術家にとってはただ一度だけ生み出すことができる、それは奇跡の産物かもしれない、とわたしは思っている。
 

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