アナログ派の愉しみ/映画◎井上梅次 監督『第三の影武者』

ホンモノと
ニセモノのあいだ


「では、クララ、娘のことはもうよくわかっているようだから、ジョジーの歩き方をまねして見せてくれる? どうかしら、いまここで、娘の歩き方を?」と母親に命じられて、クララはよろよろと、身体の障害のせいでおぼつかないジョジーの足取りを見事に演じてみせた。ノーベル賞作家、カズオ・イシグロの近作『クララとお日さま』(2021年)の一場面だ。

 
実直なAIロボットと人間のエゴイズムの対比を描こうとするこの作品は、はっきり言って、幼いころ『鉄腕アトム』や『ドラえもん』などに親しんだ者にとってはとくに目新しいものではなかった。そうしたなかで、上記の引用個所が示すようなホンモノとニセモノという主題は、現代ならではと感じられた。少女ジョジーのもとにAIロボットのクララがやってきたのには、母親のひそかな目論見があった。ふたりの娘のうち、姉のほうはすでにこの世になく、妹のジョジーもひどく病弱だったので、あらかじめ彼女の外見も内面もそっくりクララにコピーしておけば、万一のときにはジョジーの身代わりになって悲しみを癒してくれるだろう、と――。

 
しかし、この主題も十分に発展することなく尻切れトンボで終わってしまったのが、わたしにはいかにも欲求不満だった。そこで思い起こしたのが、井上梅次監督の映画『第三の影武者』(1963年)だ。

 
ときは戦国末期。峨峨たる山岳に囲まれた飛騨の地では、天下布武に乗りだした織田信長の手も届かず、いまだに小領主たちがたがいに鎬を削っていた。百姓の倅・二宮杏之助(市川雷蔵)も侍になって手柄を立てたいと野心を抱いていたところ、領内を巡察中だった家老の目に留まりスカウトされて勇んで城へ出かけていく。実は、杏之助の顔立ちが主君・池本安高(市川の二役)と瓜ふたつだったため、不測の事態に備えて、三番目の影武者の役があてがわれたのだ。その際、家老がまず、片足の不自由な安高に似せて跛行の訓練からスタートしたのは、ジョジーの母親と同じだった。どうやら、外見上、その人物を最も特徴づけているのは歩き方らしい。

 
やがて、横暴な安高の口ぶりや立ち居振る舞いも身につけ、まわりの側近たちの目も欺くほどになり、ホンモノの振りをして優雅な日々を過ごしたのも束の間。つぎなる合戦で安高が敵の矢に左目を射抜かれると、ニセモノも同じ目をつぶされることとなり、それを拒んで逃げようとした一番目の影武者は家老に斬殺される。さらに隣国の奇襲によって阿鼻叫喚の大混乱に陥ると、二番目の影武者が矢面に立たされてボロ布のごとく命を落とし、そのすきに安高と杏之助のふたりだけで危地を脱したものの、安高は深傷を負って左腕を失い、このままでは同じ目に遭わされる立場の杏之助は、「裏切るんじゃない、おれは元に戻りたいだけだ。きさまは犬畜生だ!」と叫んで主君の胸を刀で貫く。

 
このあと、杏之助は郷里に隠れ住んでいるところをふたたび家老に見出されて、今度は影武者ではなく安高本人として飛騨五十万石の覇者をめざすことに。かくして、いっそう数奇な運命を辿っていく……。

 
こうして眺めてみると、ホンモノとニセモノは、たとえ当初は親密なパートナーシップを結んで共存の関係にあったとしても、それぞれが自己という存在に閉ざされている以上、いつかは摩擦が生じて火花を散らしながら、一方がもう一方を食いつぶさずにはおかないようだ。ひっきょう、ホンモノとニセモノの両立は不可能なのだろう。

 
とするなら、『クララとお日さま』においても、もしジョジーとクララの交流が母親の思惑どおりに進んでいくと、いまは仲のいいふたりもいずれ決裂して生死を賭した相克に至るのだろう。あるいは、そうした成り行きは人間同士にかぎっての事態で、人間とAIロボットのあいだではまた異なった展開がありうるのか。そのへんまで書き込まれていたならば、この小説はもっと遠大な地平を切り開けたものと惜しまれる。いや、そんな悠長な話ではないのかもしれない。『鉄腕アトム』や『ドラえもん』が絵空事だった時代とは違って、もはや身辺にAIロボットの存在が当たり前となった今日、その問いかけはわれわれのすべてに突きつけられているのだから。

 
その意味で、『第三の影武者』の結末は恐ろしい。杏之助はホンモノにもニセモノにもなりきれないばかりか、いつしかホンモノとニセモノの区別さえ消え去り、たったひとり狂気の渕に沈んでしまう……。


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