アナログ派の愉しみ/音楽◎ドヴォルザーク作曲『新世界より』

その音楽は
黄昏どきによく似合う


イングリッシュ・ホルンが奏でるその旋律を耳にするなり、たちまち、こめかみの辺がざわざわして鼓動の速まるのがわかる。一種の条件反射だろうか。アントニン・ドヴォルザークが作曲した『交響曲第9番〈新世界より〉』(1893年)の第2楽章だ。ラルゴ(緩やかに)の速度指定がついたこの音楽は独立して、日本でも「家路」や「遠き山に日は落ちて」の題で知られているが、とりわけ子どもにとっては馴染み深いものだろう。

 
わたしも小学校に通っていた当時、放課後に友だちと校庭や公園で遊んでときのたつのも忘れていると、やがてどこからともなくこの音楽が流れてきて、それを合図にみんな散り散りになり、まばゆかった夕映えも色褪せて、青空の名残りのなかを蝙蝠がジグザグに翔けていく。そんな黄昏どきはまた、薄暮の向こうからオバケの気配がやってくるころあいでもあった。幼いわたしは日々、ドヴォルザークの音楽に誘われて、ゲゲゲの鬼太郎のようにかれらと交歓のひとときを過ごした……。

 
ブラームスの支援を受けながら、プラハを拠点に新進作曲家として輝かしい道のりを歩みはじめたドヴォルザークが、いきなり不幸に見舞われたのは1875年、34歳のときだった。妻アンナとのあいだに授かった長女ヨセフィナが生後3日目に息を引き取り、翌々年には次女ルジェナ、長男オタカルも立て続けに死の運命に奪われてしまう。それがドヴォルザークにとってどれほどの体験であったかは、愛児3人への思いを込めて作曲された教会音楽『スターバト・マーテル』(1877年)を一聴すれば明瞭だ。

 
悲しみに沈める聖母は
み子のかけられた十字架の下に
涙にむせび、たたずみたまえり
(渡辺学而訳)

 
まったく、なんという音楽だろう。十字架上のイエス・キリストを見上げる聖母マリアの心情に託された悲哀とともに、そのあまりにも澄み切った美しさからは、この世とあの世の境を超えて無垢な魂たちと遊び戯れる喜びさえ伝わってくるようだ。こうした体験とは、ほかの体験と較べて大小を問う相対的なものではなく、振り子が振り切れるように、このあとでは人生の意味がまるで一変してしまう絶対的なものではないだろうか。

 
よく知られているとおり、ドヴォルザークは1892年、51歳のときにニューヨーク・ナショナル音楽院の院長をつとめるためにアメリカへ渡り、以後2年7か月の滞在中に『新世界より』のほかにも、『弦楽四重奏曲第12番〈アメリカ〉』や『チェロ協奏曲』といった傑作が生みだされた。

 
ヴァイオリニストの黒沼ユリ子が著した『わが祖国チェコの大地よ』(1982年)は、児童書でありながら、ドヴォルザークへの深い敬意からゆかりの地を訪ねて関係者に取材した貴重な一冊だ。このなかにアメリカ時代の様子が点描されている。ドヴォルザークは自宅のリヴィングルームに音楽院の学生たちを招いて、インディアンの英雄を謳った詩人ロングフェローの『ハイアワサ』を読んだり、親交のあった黒人歌手のハーリー・バーレイの協力で黒人霊歌を聞かせたりしながら教え諭したという。

 
「こんなにすばらしい土の香りのするメロディーが、アメリカにあったことを、君たちは今日まで知らなかったのかね? これこそ、君たちの作曲に必要なインスピレーションの源泉じゃないか……。こんなに心をうたれるアメリカの財産に、今までだれも注意を払わなかったとは……」

 
新大陸で差別されてきたインディアンや黒人のスピリチュアルな世界の発見と、かつて『スターバト・マーテル』によって扉を開けた境地がこうして合流し、豊かな大河となって、新たな作品に注ぎ込んでいったのに違いない。その波濤が『新世界より』第2楽章のラルゴで極点に達し、そこでは生者と死者も分け隔てなく、さんざめく喜びと尽きることのない悲しみもひとつに溶けあって大地をひたしていく――。まったくもって、なんという音楽だろう。

 
たとえ現代のアスファルトとコンクリートに被われた街にあっても、そしてもはや老いたる鬼太郎であっても、黄昏どきともなれば、われわれはドヴォルザークの音楽によってオバケと交歓できるように思うのだが、どうだろうか。
 

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