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小説/花暁

 ひらり。ひらり。視界には一面の紙吹雪。ふわり。ふわり。どこからか舞ってきた色とりどりの紙片が少女の鼻先をくすぐった。
 それは真冬の黎明。銀世界は朝日を反射してきらきらと輝く。少女の視線の先には、一本の大木と一人の少年が佇んでいた。旭日は彼らの後光となり、その表情は見えない。真白の世界でその姿だけは、黒く濃く、まるで水墨画のような力強さで静かにそこに佇んでいた。
 少女は駆け寄ろうと一歩踏み出したが、ぶかぶかの長靴に足をとられ新雪に頭から突っ込んでしまった。刺すような冷気が顔に広がったかと思ったら、それはじわじわと全身を這い始めた。耳までかぶった帽子も、二三重に巻いたマフラーも、お気に入りのもこもこ手袋も、大きすぎるコートも、もはやなんの意味もなかった。
 けれど黎明に立つ少年は、そんな寒さも、盛大に転んだ目の前の少女の姿も気にも留めずに、静かにそこに佇んでいた。
――まるで彼の中には、音も温度も存在していないような。
 静寂だった。光と静寂のみがそこに存在していて、何人もそれを侵すことは許されないような。幼い少女ですら、息を呑むほどの静けさ。
 はらり。はらり。また紙吹雪が舞った。白黒だった世界に色が舞い、甘さと青さを含んだ香が広がる。ざあっと風が吹いて、潮騒が聞こえた。ざわめきが聞こえ、世界に音が落ちた。それは生命の音。息づき、芽吹く声。
 赤、青、黄、橙、緑、桃、紫、そして――。
少女の視線は自然と、空を踊る紙吹雪から少年へと向かった。太陽が昇るにつれて、彼の表情がゆっくりとあらわになる。少女が立ち上がると、陽光がその体を羽でくるむように包んだ。くん、と暖かな匂いが鼻先をかすめた。ぶかぶかの長靴で一歩一歩、雪を踏みしめていく。さくり。さくり。少女の足の形に沿って雪が消えていく。少年の向こうの空は曙。朝の色は薄紅だと、少女はこのとき初めて知った。暮れ行くことを惜しみ、ひときわ輝きを残そうと切なさを秘める夕暮れよりも、始まりを連れて柔らかく世界を包み込む朝焼けのほうが優しいと思った。
 少女が少年の前まで来ると、彼はにっこりと笑った。その白い肌も、白いシャツも、白いパンツも、雪解けとともに消え入りそうなほど儚げだった。けれどその顔は上気し、うっすらと健康的に色づいてた。 
 それは、朝の色。花の色。春の色。
 少年は少女の手を取ると、隣の大木にその手を導いた。触れた手のひらから微かな鼓動がした。揺れるような、さざめくような、脈打つような、うごめくような。
 そして少女の手が大木の鼓動を確かめた瞬間、また紙吹雪が舞った。ひらり。ひらり。まるでスローモーションのように。ふわり。ふわり。赤、青、黄、緑、桃、紫、零れるように舞い散っていく。はらり。はらり。それはいつの間にか花吹雪に変わっていた。頭上を見上げれば桜の蕾が芽吹いていた。
――春だ。春が来たのだ。

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