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蝉と僕と七月

1999年7月 横浜山手

照りつける夏の日差しに目を細めながら、僕は外国人墓地に向かう坂道を彼女と二人歩いていた。

ミンミン蝉が忙しく鳴いている中、

彼女はふと蝉の一生にまつわる話を語り始めた。

「蝉は生まれてからずっと何年も暗い土の中にいて、実はこんなふうに太陽の光の下で鳴けるのはわずか一週間だけなんだよ」

「ふ〜ん、そうなんだ」

と相づちを打ちながら、僕は、どうして彼女がこの蝉にまつわるトリビアを僕に話してくれたのか、その意図を図りかねていた。

そして、そのときもその後もその理由を聞けないまま、結局、その年の十二月に彼女と別れた、というか、フラれたのだった。

彼女は、僕が人生で初めて本気で好きになった女性だった。

英会話教室で初めて彼女を見た瞬間、確かに時が止まったのを覚えている。

このときハチクロの真山が隣にいたら、

「人が恋におちる瞬間をまた見てしまった」

と嘆いていたに違いない。

それくらい我ながらマンガみたいに完璧な一目惚れだった。

しかし、好きこそものの上手なれ、とはよく言ったもので、当時、食品工場でほぼ誰とも喋ることなく、もくもくと肉体労働に勤しんでいた典型的な勤労陰キャ男子だった僕でも、なぜか彼女の前では、我ながらとても軽妙かつウィットに富んだ会話を交わすことができたのだった。

それが功を奏したのか否か、内心、心臓が飛び出るくらい緊張した初デートの誘いも彼女はこちらが拍子抜けするくらい、あっさりとオーケーしてくれた。

でも、それ以降、定期的にデートを重ねながら、

「なんでこんな素敵な人が僕みたいな何の取り柄もないさえない男と付き合ってくれているのだろうか」

と人知れず自分勝手な劣等感に苛まれ続けていた僕は、なかなか彼女との距離を縮められずにいた。

それどころか、このへっぽこ腰抜け野郎は結局、彼女と別れるまでの八ヶ月間、彼女の手すら握ることができなかった。

都内のお嬢様学校を卒業後、大手金融機関に就職し、「いつも私が部長の尻拭いしているのよ」なんて言いながらケラケラと笑うエルメスのスカーフを首に巻いた、僕より六才歳上の彼女は、当時の僕にとっては、まさに高嶺の花以外の何物でもなかった。

確かにあのときの僕は彼女のことを

温かい血が通った一人の生身の女性としてではなく、

手の届かない崖の上に咲いた一輪の花として、

ただ指を加えて見上げていたに過ぎなかったのかもしれない。

柔肌の熱き血潮に触れもみで 悲しからずや道を説く君 与謝野晶子


にも関わらず、彼女はいつかそんな僕が勇気を振り絞って崖を登り切って自分に告白することを辛抱強く待ってくれていたのだろうか。

もしそうだとすれば、僕は何度、その彼女の期待を裏切ってきたのだろう。

どうでもいい人たちからの拒絶にはすっかり慣れっこになったつもりだったけれど、本当に好きになった人にだけは嫌われたくなくて、自分から友達や恋人を作ることをずっと避け続けたあの頃。

「その時」のことを想像するたびに、まるで世界が終わるような気持ちになって、勝手に震え上がっていた。

そして、そんなことでは世界は決して終わらないのだということを図らずも教えてくれたのが彼女だった。

というか、当時の僕はまだ世界に足を踏み入れてすらいなかった

ということが今の僕ならよく分かる。

七月の彼女のあの台詞はもしかしたらそんな僕に向けたメッセージだったのかもしれない。

「どうしてあなたはそうやって地中でひとり閉じこまったままで、私がいるこの世界に飛び出してこないの?」

しかし、あのときの僕はそんな彼女の秘めたメッセージに気づけるはずもなかった。

なにしろこの筋金入りのウツケモノは、何とあろうことか、同じ蝉でも

夏の太陽の明るい光を浴びて元気に鳴き続けるている蝉たちの姿に

自らの姿を重ねていたからだ。

たしかにそれくらい有頂天にはなってはいたのは事実ではあった。

だけど…。

僕は、結局、ありがとう、の一言すら彼女に言えずじまいだった。

その翌年の七月、僕はクーラーの効かない狭い下宿部屋でひとり汗をダラダラとかきながら、延々とある曲をリピートしていた。

手にもしていないものに対する喪失感に勝手に胸を焦がしながら。

そして、今年もまたこの季節がやってきた。

でも、僕はあの「こうかい」の果てにたどり着いたこの世界の上で、今もこうやってどうにかこうにかやっているよ。


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