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チェスガルテン創世記【24】

第五章――あたらよ【Ⅳ】――


 フェンリルの短剣は見つからなかった。戦士たちの亡骸を葬った大人たちにも聞いてまわったが、彼らからの答えはなにやら奇妙なものだった。
 最後の戦士が負っていた腿と鎖骨まわりの傷口が、他の亡骸のそれとは異なっていたという。

「一晩放置して、食べる際に柔らかくする時の肉があるだろう? ちょうどあのような状態だ。傷口が半分凍りついて、滲みだすほどにしか血が出ていなかった」

 本当に短剣で斬りつけたのか? と逆にたずねられたが、フェンリルにも答えられない。
 これらの事象が何事か証明できるものがあるとすれば、それはやはり、どこかに埋もれているはずの短剣のみだった。
 ハティの鼻で嗅ぎあててもらおうかとも考えたのだが、先を急ぐ旅路となる以上、あまりこだわってもいられない。
 結局、もうどこにもないものと、諦めるしかなかった。

「成人したての若造の手元から、古い剣が無くなった。これも天王様の思し召しだろうさ」

 フェンリルは呆れた。この世のどんな出来事も、カザドにかかれば天王のお導きとなるのかもしれない。
 得物が手元にないことは、心もとなく頼りない気持ちにさせたが、あえて反論はしなかった。
 その後彼らはカザド達の持ってきた食べ物と、戦士たちの騎馬を潰して得た肉で簡単な食事をとった。痕跡をなるたけ残さないよう、火を起こさなかったため、冷たいままの食事である。
 しかし、肉と塩があるだけでもごちそうだった。
 香草と混ぜ、すり身にして塗りつけた馬の肝臓のおかげで、石のようだったパンも柔らかくなったし、久しぶりに食べた集落のチーズは美味しかった。そして生の馬肉は兎や小魚よりもずっと活力が湧いた。
 戦士たちが駆っていたのは、雪道も苦にせず怒号や火の勢いにも戦かない、立派な軍馬だった。
 だからこそ連れ歩くには目立ちすぎた。かと言って野に放てば、主人の仲間の元に帰りつき、異変をいち早く知らせる存在となるだろう。
 そんな理由から彼らの糧となったのだが、一度乗ってみてからでも遅くなかったのにと、トルヴァがいつまでも惜しんでいた。
 そして今回、カザド達大人が移動の為に利用したのは、二台の大きなそりだった。

「いつもの幌馬車ほろばしゃはどうしたんだ?」
「車軸がいかれて駄目になった」

 カザドは簡潔に答えた。あの幌馬車はフェンリルの記憶のある限り昔から、長く使ってきたものだった。

「寿命だろうな。そのかわりに、彼らの集落で橇を借りることになったんだ。雪道だとこれほど快適なものはない。滑るように進んでくれる。――まあ、舵取りは少々難しいが」

 話を側で聞いていたケヴァンが笑った。

「なあになあに、カザド殿は馬の扱いが上手いからすぐ慣れますとも。それと、この橇には少々面白いしかけもある」
「しかけって?」

 そりに張った天幕から顔を出してダインがたずねたが、ケヴァンはだめだめと手を振りもったいぶった。

「まあ待て待て。答えは今にわかる。ともかくお前達は乗っていなさい。今はまだ火を起こせないから、しっかり互いにくっつきあってな」

 荷物と子供たちを二手に分けて、橇は出発した。歩く必要が無いのはありがたいが、橇はカザドが言うほど快適な乗り物とは言えなかった。
 元来た道の匂いを辿り、彼らを扇動するスコルとハティがいても、歩みはずっと遅い。
 風こそ無いが霧のたちこめる薄暗がり、火も起こさず道なき道を進むのは誰であっても無謀なことで、馬をも虐める行いだった。

「霧を晴らそうか? 今よりはましになるだろ」

 フェンリルが申し出たが、彼の顔を見た途端、カザドは渋い表情になった。

「いらん、お前は休め」
「だけど――」
「休め。わかったな」

 反論は一切認めない、強い口調だった。

「目を閉じてるだけでも違うから、座っておけよ。気づいてないみたいだけど、かなり顔色悪いぜ」

 トルヴァが言うと、フェンリルは橇の中に引きさがりはした。けれど膝を抱えて目を光らせている彼の頑なさを見て、トルヴァもついに説得を諦めた。
 時折雪の塊に引っかかった橇が揺れ、夜行性の生き物の鳴き声が遠くからでも聞こえてきた。夜は彼らの歩みを追い越して深くなり、あたりはより一層冷えていく。
 そうして幾度も獣しか使わないような斜面を登り降りし、夜の帳がとっぷりと降りた頃、彼らの歩みは止まった。
 フェンリルはとうとう馬がいじけてしまったのだと考えた。

「今夜はここで野営する。天幕を張るから手伝え」

 カザドが告げたのは歓迎すべき内容だった。うつらうつらと船を漕いでいた子供たちが降り立つと、そこは川のほとりだった。
 フェンリル達が拠点にしていた洞窟の側の小川よりも深く、流れの早い大川おおかわだろう。黒く暗く、どうどうと流れる流水は星明かりに煌めき、周囲に水音を轟かせていた。
 彼らはその場に素早く天幕を張り、毛皮をたっぷりと敷いて火を起こした。暗闇の中に灯った篝火は、凍えてこわばった彼らの心身をおおいに温めた。
 その後大人たちは子供たちを労り、寝ずの番を担ってくれた。
 大人に甘えるということから離れがちの子供たちには、ありがたい申し出で、彼らは天幕の中、久しぶりに安心しきって眠りについた――ただ一人をのぞいて。

 毛皮の掛けものを被って横になってはみたものの、眠れないままで身じろぐのはフェンリルだった。
 日の高いうちに意識を無くしていたとはいえ、彼の体はまだ休息を必要としていた。そのはずなのに、右を向けども左を向けども一向に、甘美なるまどろみはやってこない。
 それどころか黒いもやが瞼のむこうにかかり、意識に覆いかぶさってくる。形のないまま鎌首をもたげるそれは、フェンリルの抱く不安や恐れそのものだった。
 ついには夜のしじまを引き裂くような悲鳴を聞いた気がして、フェンリルは思わず耳を塞いで飛び起きた。
 あたりを見渡すも誰ひとり起きていない。安らかな寝息だけが天幕を支配していた。額に浮かぶ汗をぬぐい、フェンリルはそっと天幕を忍び出た。
 濃密な霧はいつのまにか晴れていた。
 すべてが凍りつくほどに冷えきり澄んだ夜だった――仰げば空には、いつ降り注いでもおかしくない、数多の星ぼしと細い弓張りの月が、冴え冴えとした光を放ちながらこちらを見下ろしている。
 翼をもってこのまま、夜の空に飛び去ってしまえたら――いっそ、この凍てつく清廉な空気に融けてしまえたなら、どんなに気分が良いだろう。

「眠れないか」

 低い声は静けさによく通った。
 焚火の前に腰をすえ、かたわらに夜空の化身たる狼と茶黒の毛玉を従えたカザドが、こちらを見ていた。ケヴァンとエイナルの姿がないところを見るに、今は彼が火の番のようだ。
 火明かりにいざなわれるように、ふらふらとおぼつかない足取りで、フェンリルはカザドの隣に腰を下ろした。
 二人の間に横たわるハティがフェンリルに気づき、尻尾をゆっくりと振る。頭を掻いてやると、黒々とした目が細まった。

「腹が減っているんじゃないか?」
「べつに」
「肉はまだ充分にある。炙るか?」

 フェンリルは首を振って焚火を見つめた。実際、出された食事をいくらも食べてはいなかった。もともと食べるということに積極的なたちではないのだ。
 カザドは懐から包みを取り出し、中身のチーズを小刀ナイフで切り分けた。

「食え。この先その調子では、身が持たん」

 手渡された薄黄色のひと固まりを、フェンリルはうろん気に見つめた。受け取らない限り、カザドがいつまでもそうしているのがわかった。
 しかたなく手にとって、無機質にちびちびと咀嚼そしゃくする。フェンリルがきちんと食べているのを確認し、カザドは薪の中から一本、長いものを選び取った。

「眠れないついでに、話してしまうから聞いておけ。これから俺たちが向かう場所についてだ」

カザドは薪で、足元の雪面にそれは簡単な図面を描いた。

「はじめに向かうのはこの川を下った先だ。そこは定期的に開かれる市があって、まずはあの戦利品をさばく」
「いち?」
「様々な一族が交流に利用する、交易場だ――そこで生活している者もいるようだが、集落とも遊牧ともまた違う。各地にそういった場所があるんだ。
 決まった期間、決まったその場で商売したあと、また別の地、別の者たちが市を開く。お前も一応成人した身だからな、そろそろ覚えておくべきだろう」

 フェンリルは内心で拍子抜けしていた。この二月、老人が戻らぬ間に次こそは教えてもらうと意気込んでいたことが、向こうから突然切り出されたのだ。 
 このことを喜ぶべきか憤るべきか迷っていると、さらにカザドは言った。

「その後は更に川を下り、尾根向こうを目指す。その先の山すそに、ケヴァン殿たちの集落がある。ここが最終目的地だ。――ここで、終わりにする」

 フェンリルは言葉に隠れた含みに、はっとした。
 終わる。終わるとはまさか――

「どういう意味だ」
「どうもこうもない。――彼らはダインとロッタ以外も、受け入れてくれるそうだ。今後は集落の一員となって生活をする。それだけだ」

 あまりに唐突に旅の終わりを告げられて、フェンリルは言葉をなくした。 
 これまでずっと、集落に居つくことを良しとしてこなかったカザドなのだ。そういった誘いや申し出を、受けつけてこなかったカザドなのだ。フェンリルはその頑なな背中を、ずっと見続けてきた。
 カザドはどこかの集落に立ち寄れば、可能なかぎり沈黙した。
 歓迎の食事を受け入れても一人きり幕屋の外で食べて、夜が来れば幌馬車で眠りについた。提供された幕屋を使うのは子供たちばかりで、必要最低限の受け答えしかしないまま、やがて、逃げるように立ち去る。
 集落にいる間のカザドはいかにも不機嫌で、何かに急かされているようにどこか落ち着かな気で、いっそ、心細く見えるほどだった。ヘルガが思うように、集落にいつけないほど人嫌いな、頑固なこの老人が……

(それが、いったいどうして)

 岩のように揺らがない彼の心を動かす、何があったというのか。


【次話】

【他本編】

これまでとこれからと

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【らくがきとか】

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