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平静書の役割、最も親しい書物との交際について(読書論エッセイ)

読書を続けていると、積読本、ある程度付き合いのある書物、付き合いは多いが、そこまで親しくない書物、ある程度親しい書物、付き合いが深く親しい交際のある書物(そして、この最後の書物が、愛読書となる場合がある)に自分の読む本が大別できることに気づく。

書物にも読者との相性があり、読書をする時間の長短や再読の頻度、愛着の度合い、興味の程度、出会いのきっかけなどによって、その書物との関係性の強弱がうまれ、親しさの度合いが違ってくるということである。

言い換えれば、書物にも人間と同じように心を深く通わせられるものと、それほどでないもの、全く相性が合わないもの、というふうに不思議と書籍関係という色合いが生じる。

そんなにはっきりしない場合もあるし、時間が経つにつれ、関係性が変わったり、交際が深まったり、ますます魅了される場合も少なくはない。

ただ、一度交際が深まった書物やそうした深い関係の書物が極まった結果、愛読書となった場合、それらの書物は、親友とも、恩師だとも捉えられので、滅多なことがない限り、売ったりはしないし、失くさないように気をつけるし、汚れたりしないように大切に預かっておくのである。誰から預かるのか。それは自分の生命の終わりや運命の女神からである。

大げさすぎるだろうか。いや、そうは思わない。所有物はあの世へは持って行けないし、天災や事故など、何か不慮の出来事が起きたら、失くさないとも限らない。その可能性は十分にあるだろう。前者の場合は避けられない。

だからこそ、書物というモノに執着を持ちすぎないことも感覚としては認識している。ブッダも所有物には執着心を持たないようにと教えてくれたのだ。ただ、頭ではわかっていても、心ではなんともしようがない。
だから、自分が生きている限りは、深い交際のある書物や愛読書は、大事にしたいと思っている。

私は基本的に一度買った本は売らない。そう決めているわけではないが、予算が限られているので、まず購入する書物は相当注意深く選ぶし、その結果、交際を始めた本は、長い付き合いになることを前提に、大事にするからである。それでも、物理的に置くスペースに困った場合はどうするか。そんなに多くの書物を買わないので、現時点ではそうしたことは起こらない。

多読とは、多くの書物(人間とおく)と広く付き合いはするが、深く付き合える書物には限りがあり、親友ともなれば、数冊であり、愛読書ともなれば同じくらいか、それよりも少ないだろうか。

ストア派哲学者のセネカは、多読の害について述べていた。『言志四録』の著者、佐藤一斎も似たようなことを述べていた。

つまり、人間が一生涯に読める書物には、限りがあり、総量からすれば、豆粒のようなものである。優れた少数の書と深く交わり、己が血肉にする書を精選すること。一定の良書と親しく交際すること。

こうした教訓を私は書物の著者や図書館の存在から教えられたが、自分の実感としてそれに気づく人もいるだろう。情報収集をそれなりに続ければ、登場する見解でもあるかもしれない。

アリステレスやブッダは、良き(善き)友との交際について語っているが、良き書も、良き人間が書いた書であることには違いないだろうか。

人格者との交際は、万巻の書に及ぶといったのは、『自助論』のスマイルズだったろうか。手元にあるのでいつでも確かめられる。たしかそんなことを言っていた。

結びとして、平静書という考えについて語ろうと思う。
平静書とは、それを読むことによって、自身の内面が整い、落ち着きをもたらし、安らぎ、心をよい状態に保つ書であり、静寂の書である。

愛読書とほぼ同じ意味ではあるが、寝室で、入眠儀式の一環として、そうした平静書を読み、眠りにつく。そうした平和な精神性を湛えた書である。

私にとって、そうした書は、多くはない。数冊である。

ストア派哲学者の書も含まれる。個人的なことなので、詳述はしないけれども、そうした書は棚には置かず、枕元に置いてあることが多い。

そして、朝、豊かな自然に囲まれてその書を読み耽ると、活力に満ちた野鳥の鳴き声、樹々が揺れるやわらかい音、水が流れるせせらぎ、青々とした樹々などが発散させた澄んだ新鮮な空気、青空に包まれ、自然と地球と自らの精神が一体化した、神聖性のある時間を過ごせる。

そうしたかけがえのない経験に感謝して終えたい。東京都内にて。


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