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静かな生活をおくることの意味・読書編集

静かな生活を大事にしたい。そう思う。だけれども、そうした生活スタイルに惹かれたのは、おそらく最近のことだと思う。
静かな生活の大切さを認識したのは、この本を読んでからだ。


この本の17章で静かな生活の意味がメッセージされている。私はそのメッセ―ジに共感した。今回の記事では、そのアウトラインを編集して紹介しながら、静かな生活をなぜ私が大事にしたいと思ったのか、考えを整理してみたい。ただ、留意すべきは、私自身は社会人経験がほとんどないことだ。なので、これから人生をおくり、仕事を考える上での私自身の理想論であるとも捉えてもらって構わない。ただ、理想は理想だけれども、実際に自分の内なる基準、あるいは、軸としたいと考えている。

上の本の17章を読んで、新鮮な驚きだったのは、現代最高の知性ともいわれる、バートランド・ラッセルの偉人の生涯に関する所見だ。
そのまま引こう。

偉大な本は、おしなべて退屈な部分を含んでいるし、古来、偉大な生涯は、おしなべて退屈な期間を含んでいた。(中略)
偉人の生涯にしても、二、三の偉大な瞬間を除けば、興奮にみちたものではなかった。ソクラテスも、(中略)生涯の大部分は、妻のクサンチッペとともに静かに暮らしたのだ。そして、午後には健康のために散歩し、もしかすると、途中で二、三の友人と会ったことだろう。
カントは、一生涯、ケーニヒスベルクの町から十マイル以上離れたことは一度もなかった、と言われている。
マルクスは、いくつかの革命を起こしたあと、残りの日々を大英博物館で過ごすことに決めた。総じてわかることは、静かな生活が偉大な人々の特徴であり、彼らの快楽はそと目には刺激的なものではなかった、ということだ。

バートランド・ラッセル著『幸福論』岩波書店より

ラッセルは、第一部「不幸の原因」第4章の「退屈と興奮」でこうしたアイディアを述べている。

ラッセルは、退屈を楽しむ力をある程度持っていることが、幸福な生活に不可欠であり、退屈を紛らわす興奮についても、多すぎる興奮は健康に悪く、一定の量に抑えるべきだと述べている。

上に引用した文を読み、私が感じたのは、なぜ偉大な人々は、古来、静かな生活をおくり、それがどのように偉大なことを成し遂げるのに結びついたのか、という疑問だ。そして、そうした偉人たちがおくった静かな生活は、私たちを含め、より多くの人々にとっても素晴らしい利点や学べる点が少なからずあるのではないかということだ。

静かな生活は華やかさとは程遠い。むしろ、現代(日本)でマスメディアの注目や世間の注目を浴び、世の中を騒がせるような有名人の多くよりも、どちらかといえば、現代に暮らす、多くの無名の人々の生活の方が、静かな生活の暮らしに近いか、そうした暮らしをしやすいのではないだろうか、と感じた。もちろん、有名人のなかでも静かに暮らしている人はいるだろうけれども。(私もそうした無名の一人である)

ロルフ・ドべリは、先述した書籍の中で、静かな生活をおくる投資家のウォーレン・バフェットと忙しない証券トレーダーのイメージを対比している。
それを読む限り、バフェットは有名人ではあるが、静かな生活をおくっていることが印象に残る。
そして、この違いを思考の道具として提示している。

なぜ偉大な人々は静かな生活をおくり、偉大なことを成し遂げたのか。
著者のドべリは、その答えを長期的な考えに基づく長期的で緩慢で退屈なプロセスに求めている。
私たちは、世の中を騒然とさせるような一気に状況が変わる展開に慣れている。一方で、長期的なゆっくりとした変化にはほとんど気づかない。
(これは、私の解釈だけれども、)
しかし、社会に真にインパクトをもたらすような大きな変化を起こせるプロジェクトは、忙しく動いて短期的に結果がでるよりは、長期的で緩慢なゆったりとしたプロセスを経てもたらされるのだ、と。

歴史上に名を残す女性の偉人たちにも、もちろんこのことが当てはまる。
派手に動き回ればよい考えが浮かぶとか、休みなく何かに取り組めばその何かに対する理解が深まるとか、積極的に働けば結果がともなうとかいうような相関関係は、存在しないのだ。

ロルフ・ドべリ著『Think Clearly』サンマーク出版より

古来の偉大な哲学者や探究者は忙しなさとは程遠い、静かな生活をおくっていた。
だが、それは哲学や科学の研究にとどまらないのだろう。
ドべリの考えるように、現代人における仕事や人生のプロジェクトや趣味、プライベートなどの広い意味での多くの活動にもこの生活の意義は、当てはまることなのかもしれない。
また、長時間労働の問題にもこの観点から、再考できるのではないかと感じた。休みなく積極的に働いてもそれにともなう結果がないのなら、私たちは何を大事にして働くべきなのか。価値観の転換が求められるのかもしれない。
さらに次の本にこれに関連することとして、素晴らしい考え方が紹介されている。そのアイディアとは、「結果自然成」というものだ。

努力すれば、いい結果が出る。いい結果が出ないのは、努力が足りないから。そうではないのだ。世の中というものは、努力をしても、いい結果が出ないときもあるし、大して努力しなくても、いい結果が出るときもある。
結果自然成。道元は、「空華」の冒頭にこの言葉をかかげて、すべての結果というものは、自然に出てくるものであって、人間の作為とか努力とかに関係しない、と説く。結果というものは、人間が出すのではない。花が咲くごとく、天地自然が結果を生むのだ。

境野勝悟著『道元 禅の言葉』三笠書房

素晴らしい考え方ではないだろうか。

そして、認知科学者のスティーブン・ピンカーの次の言葉は印象的だ。

悪いことは一瞬で起こりうるが、良いことは一朝一夕では成し遂げられず、ゆっくりと展開するあいだにニュースの軸から外れてしまう。平和研究者のヨハン・ガルトゥングは、新聞が半世紀ごとにしか発行されないとしたら、有名人のゴシップだの政治スキャンダルだのではなく、平均寿命の延びといった、もっと重要で地球規模の変化を報じるだろうと言っている。

スティーブン・ピンカー著『21世紀の啓蒙』草思社より

いずれにせよ、人工知能による革命は、私たちの社会に深い影響を及ぼすと言われている。労働がAIに置き換えられ、古代ギリシャ以来の余暇社会が到来すると考えている人もいる。現代のランティエのようなケースも広く見られるようになるかもしれない、と。
そのようになった世界では、人々は、業績がどうのこうのというよりは、たんに楽しみと喜びから、静かな知的生活を幅広く行い、地球環境と人類の未来を考えた、長期的で真に公益になる大きなプロジェクトに注目するようになるのかもしれないし、そんな世界になったらいいなと考える。

読書ノートのようになったが、ここで終わるとする。


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