ベーコン卿のアドバイスに共感したから、自然観察を友にする。(古本日記)
哲学者のフランシス・ベーコン卿は、『ベーコン随想集』で次のようにアドバイスしている。
これを読むと、ベーコン卿は、歴史や寓話とともに、自然観察(という心を輝かせるような対象で満たす研究)を受け入れるように、読者にアドバイスしていることがわかる。
(ベーコン卿は自然観察においても熟達していたのだろうか。知りたいところである。)
私はこの文章を読んだこともあり、以前から、自然観察を趣味にしたいなあと漠然と思っていた。
最近は危険な暑さで無理だけれど、もう少し涼しくなってきたら、近くの自然公園にでも通い詰めて咲いている花をはじめとする植物や樹木などをじっくり観察し、身体を自然と一体化して、リフレッシュでもしたいと考えている。
もっとも、まだそれなりに涼しかった頃は、近くの自然公園に毎日通うのが日課で、公園をぐるぐる歩いていたけれど、最近はこの暑さでずっと行っていなかったのである。
そう言えば、この記事でとある本を記録しておこうと思っていたのだった。
それは、中公新書の日浦勇著『自然観察入門・草木虫魚とのつきあい』という小ぶりな一冊である。
まだ深く読んでいないので、詳しい感想は書けそうにないから、無理して書くのはよそうと思うけれど、本書の内容紹介を引用させてもろう。
ささやかで、愉しい本である。
私は古本市でこの本を300円で購入した。20年以上前の本なので、現役書店では、古本コーナーがない限り、入手はできないと思われる。
再版の予定があれば、とは思うけれど、そんな情報は知らない。
Amazonなどのネット経由での入手が最もスムーズだろうか。
古本まつりの魅力は、その場限りの出会いが多くあるように思われることである。また別の機会の古本市で見つけられることもあるにはあるけれど、ないこともふつうにある。ネットで売られていることはある場合もあるけれど、古本市という楽しみの体験で入手できたという喜びには代えがたいことが多い。
自然観察をすることの意味は、たんに健康やリフレッシュだけにあるわけではない。この人新世の大絶滅期に身近な自然とのつながりを取り戻し、自分の中に眠るセンス・オブ・ワンダーの感性や、太古的な感性を磨くことにある。
もちろん、自然への理解を深め、われわれ人間がどれほど自然に支えられているのか、その恩恵を想い出すことにもある。
そして、それは必然的に自分が住む地域の歴史や文化への理解にもつながる。
人間は大地とのつながりなしには生きられない。その意味で、現代においては、私たちの心が荒廃しつつあるような気がするのだ。もちろん、私自身も、例外ではないだろう。デジタルの自然は、まったく別の種類の人類に宿ることになるような新たな心性のような気はするものの、一方で、200年後くらいには、もしかしたら私たちが啓蒙主義の時代を振り返るように、ただのイデオロギッシュな思想運動としてみなされている気もする。
いま述べたのは、私の無理解によるたわ言かもしれず、本当のところはわからないけれど、私が想うには、現代では、やはりデジタルの環境に移行する際の軋轢が目立っており、人間は本来的に大地に由来する自然を必要としている。
古代中国の偉大な思想家、老子も言っている。文明に依存し過ぎず、時々自然に還ることが必要なのだと。
老子の警告は、現代において現実味を帯びている。ベーコン卿やデカルト、ガリレイなどの啓蒙主義以来の自然観が大きく揺さぶられているのだ。
自然をコントロールしようと考え、文明を先鋭化した先には、恩恵はあったものの、自然が本質的に制御不能であり、人為的な理解を超えている可能性もでてきたのだろうか。私にはわからない。
自然観察を趣味にするとするなら、それはコンサマトリー(自己充足的)なかたちにするのが相応しいように思う。
つまり、何かの目的はなく、その趣味自体を楽しむうちに、自然と技となるような感覚が身についている、というものだ。
おそらく、こうして記事にしてみたものの、将来、孫ができたら、一緒に散歩をしながら観察して楽しめる、といったほどのことしか期待していない。
心が豊かになれば、それだけでよい。趣味とは、そういうものではないだろうか。
最近、Noteで取り上げた、『静寂の技法』には、静寂を見つけるための方法の一つとして、次のようなもの「自然とつながる」がある。簡略に引用したい。
この2つの方法には、自然とのつながりを取り戻し、私たちの「自我的自己」を縮小させるのに役立つという意味があるのだという。
詳しくは、この本を手に取ってもらいたい。
自然に目を向けることで、人類は新たな世界を開拓した。だから、もう一度目を向け愛でたい。終
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