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「あなたは、あなたでいいんだよ。」3歳の自分を振り返って、今、こどもに伝えたいこと。

私には、7歳の息子と、3歳の娘がいる。

息子はクイズと迷路と数字が好きで、今は「おしりたんてい」と「かいけつゾロリ」のファン。
娘は歌とダンスが大好きで、暇さえあれば自作のメロディと振り付けを披露してくれる。

二人とも個性的で、性格は似てなくて、顔も違うけれど、外から見ると「めっちゃよく似てるね」と言われる。典型的な兄妹パターン。

そんなこどもたちを見ていると「自分のときはこうだったな」と、振り返ることもある。

小さなからだに、オムツをしていたこと。
手足をうんと使って、ハイハイしていたこと。
ウンチをしたら、おしりを拭いてもらったこと。

ちょっと珍しいかもしれないが、私はそういう、1~2歳の頃から記憶があるのだ。

3歳になるともうハッキリしたもので、入園式の日や、初めての参観日、お昼寝や給食の時間も覚えている。

ただ、1〜2歳の記憶と、3歳の記憶とでは、大きな違いがある。
それは、風景の記憶と一緒に「感情の記憶」が紐付いていることだ。
 
「保育園は、遊ぶところ。でも、今日はおうちで遊びたい」
「給食のミルク。生暖かくて、あんまり好きじゃないのに、なんで飲まなくちゃいけないんだろう」
「今はお昼寝の時間。でも眠くないし、遊びに行きたいなぁ」

あれをやりたい、これをしたい、あれは嫌だ、こっちがいい。
腹の底に渦巻く自我。それが3歳頃から芽を出し、急速に私を支配した。

足が痛いから保育園を休むと駄々をこねて、叱られたり。
お昼寝から脱走して、連れ戻されたり。
兄と枕を取り合ってケンカになったり。

自我で起こした摩擦への対処は、泣いて悲しむ方法しか知らず、いつも決まって階段の隅っこに昇ってはしくしく泣いていた。

そしたら大概、知らない間に寝てしまうのだが、ちょうどご飯が出来てたりする。
ご飯を食べてるうちに元気になり、悲しみは消え、満足感だけが残る。

笑って、泣いて、寝て、食べて、また笑って。
その繰り返しが、「私」をつくった。

私は、私で、いいんだ」と。
それを知ったのが、3歳。
 
それを幼い頃に(無意識的にも)知れたのは、本当に、両親祖父母はじめ、周りの方々への感謝しかない。

今、高校生と接する機会が多いけれど、十代半ばでも「私は私でいい」だなんて、思えもしないような子だっている。
まるで「したいことをするのはダメなんだ」とでもいうように。
 
そんなことないんだ。
したいことをしていいんだ。
だって、自分の人生なんだから。
 
もちろん、自分勝手に迷惑をかけるのとは違うけれど。
「したいことをする=ワガママ=駄目」と考える子は、もっと自分に、他人に、人生にワガママでいいと思うのだ。


「あなたは、あなたでいいんだよ。
やがてその足で、自分の道を歩いていくんだ。
あなたは一生、あなたを大切にしてほしい。」


子育ても教育も、悩んだり迷ったりの連続だけど、こどもの自我には真っ正面からぶつかりたいし、お腹すいたらご飯をあげたい。
まっすぐ放つ自我、それがたとえ跳ね返されても、しっかり受け止められたという実感が、心を満たして強くする。

それはきっと、3歳でも、10歳でも、17歳でも、大人になっても変わらない。
泣いたら、寝て、おいしいご飯。
そしたら、明日また、頑張れる。

だからね。
泣いてもいいの。すねてもいい。怒ったって、イライラしたって、お腹へったって、眠くたっていいの。
食べたらいいし、寝たらいい。

あなたは、あなたでいいんだよ。

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